2026年10月25日日曜日

教師が希望とインスピレーションをもち続けるために

教師という仕事を続けていると、希望を失いそうになることがあります。子どもたち一人ひとりの可能性を大切にしたい。子どもたちが自分で考え、選び、自分たちの力で学びをつくっていける教室にしたい。けれど、目の前には、簡単には変えられない学校の仕組みや、これまでの慣習、日々の仕事に追われる現実があります。「学校はなかなか変わらない」「自分一人が頑張っても、どうにもならない」。そんな思いを抱くこともあるでしょう。

では、教師はどうすれば希望を失わずに仕事を続けていけるのでしょうか? 米国の教育者エリーナ・アギラー(Elena Aguilar)★は、教育情報サイト Edutopia の記事でこの問いに答えるべく、自分が希望やインスピレーションを得ている本、人物、映像などを紹介しています。彼女が取り上げるのは、困難な状況にあっても、人々とともに行動し、社会に変化を生み出してきた人たちです。そのなかには、日本語で読める本を通して、その経験に触れられる人物もいます。

人々をつなぎ、社会を変える――リーマ・ボウィー

リベリアの平和活動家リーマ・ボウィーは、内戦が続くなか、女性たちを結びつけ、平和を求める運動を率いました。彼女は2011年にノーベル平和賞を受賞しています。その歩みを知ることができるのが、キャロル・ミザーズとの共著『祈りよ力となれ――リーマ・ボウィー自伝』(東方雅美訳、英治出版、2012年)です。

彼女の経験から学べるのは、困難な状況を前にしても、誰かが解決してくれるのを待つのではなく、人々がつながり、力を合わせることで変化を起こせるということです。学校でも、一人の教師ができることには限界があります。しかし、同じ問題意識をもつ仲間と出会い、互いの実践を見合い、対話を重ねることで、それまで難しいと思っていたことが動き始めるかもしれません。変化は、必ずしも大きな組織や制度の決定から始まるわけではないのです。

小さな行動から、変化を生み出す――ワンガリ・マータイ

ケニアの環境活動家ワンガリ・マータイは、植林活動を通して環境保全に取り組み、地域の人々、とりわけ女性たちの力を生かした社会変革を進めました。2004年にはノーベル平和賞を受賞しています。彼女の歩みを知るための本として、次の2冊があります。

  • 『へこたれないUNBOWED――ワンガリ・マータイ自伝』(小池百合子訳、小学館、2017年)
  • 『モッタイナイで地球は緑になる』(福岡伸一訳、木楽舎、2005年)

マータイの活動が示しているのは、目の前にある大きな問題に圧倒されるのではなく、自分たちにできることから始めることの意味です。一本の木を植えることは、森林破壊や貧困といった問題を一挙に解決するものではありません。それでも、一人ひとりが行動を起こし、その行動が周囲の人々に広がることで、地域社会を変える力になっていきます。

学校でも同じではないでしょうか? 子どもたちが自分で学び方を選ぶ機会をつくる。子どもの考えをじっくり聴く。同僚の教室を訪れ、子どもたちが実際にどのように学んでいるかを見取る。気づいたことを持ち寄り、次の実践を少し変えてみる。

こうした取り組みは、一見すると小さなことかもしれません。しかし、教師と子どもたちの行動が変わり、それが仲間へと広がっていけば、学校のあり方そのものを変えるきっかけになります。大切なのは、変化の必要性を語るだけでなく、実際に行動を起こすこと。そして、行動から得た気づきを次の一歩につなげることです。

対立や不正義に向き合い、未来をつくる――デズモンド・ツツ

南アフリカの宗教指導者デズモンド・ツツは、アパルトヘイトに反対する運動に取り組み、民主化後は和解のためにも力を尽くしました。1984年にノーベル平和賞を受賞しています。アギラーが紹介している著書の一つが、No Future Without Forgiveness です。そのタイトルが伝えるのは、過去の対立や傷つきを抱えたままでは、よりよい未来を築くことが難しいという考え方です。

学校でも、子ども同士の対立や、教師と子どもの間に生じた不信感、教職員同士の意見の違いなど、簡単には解決できない問題があります。そうした問題に対して、誰が悪いのかを決めたり、表面的に収束させたりするだけでは、同じことが繰り返されるかもしれません。必要なのは、何が起きていたのかを理解し、関係を築き直し、これからどうするかを一緒に考えることです。もちろん、和解を求めることは、不正義や不適切な行為を見過ごすことではありません。問題にきちんと向き合いながら、よりよい関係と未来をつくる道を探すことです。★★

希望は、どこから生まれるのか

アギラーが紹介しているのは、ここで取り上げたノーベル平和賞を受賞した人物や本だけではありません。『Walk Out, Walk On』では、世界各地のコミュニティーが、人々のつながりや地域にすでにある力を生かして、困難な状況を乗り越えていく姿が紹介されています。また、希望や社会正義をテーマにしたエッセイや詩のアンソロジー、学生たちが不正義に抗議する姿、思いやりを行動に移す人々なども取り上げています。これらに共通するのは、困難な現実を見ないふりをするのではなく、そのなかで実際に変化を生み出している人々に目を向けていることです。

希望とは、きっと何とかなると信じることだけではありません。人々が行動することで、現実を変えられる。そのことを、実際に変化を生み出してきた人々の経験から学ぶことです。

学校がなかなか変わらないと感じるとき、私たちは、変わらない理由を考えるだけでなく、変化を生み出してきた人々から学ぶこともできます。誰とつながればよいのか? 自分たちにできることは何か? どのような小さな一歩なら、今日から始められるのか? そうした問いを持つことが、次の行動につながります。

そして、行動を起こし、仲間と経験を共有し、そこから学んで次の実践を変えていく。その積み重ねが、希望を単なる気持ちで終わらせず、現実を変える力にしていくのではないでしょうか?

教師が希望やインスピレーションをもち続けるために必要なのは、いつも前向きでいることではありません。困難な現実に向き合いながらも、変化の可能性を信じ、仲間とともに一歩を踏み出すことなのだと思います。

希望を失いそうになったとき、あなたはどうやって希望を取り戻していますか? あなたの信念や希望を支え、力を与えてくれるお気に入りの本(小説でもノンフィクションでも)、映画、詩、動画、音楽、芸術作品などはありますか? もちろん、それ以外のものでもかまいません。ぜひ、あなたのお気に入りを教えてください!(ちなみに、いま思い浮かんだ紹介者のリストは・・・・本は『ギヴァー』(ロイス・ローリー著)、映画は『サン・ジャックへの道』、詩は長田弘の「世界は一冊の本」、動画は https://x.gd/xhVO5 と https://x.gd/PgEIrMでした。)

 

出典・https://www.edutopia.org/blog/inspirational-materials-teachers-elena-aguilar

★執筆者のアギラーさんのアプローチについては、コーチング便り(https://note.com/coachingletter/m/ma24c24afc5bd)で紹介し続けていますので、覗いてみてください。

★★これを具体的に学校レベルで実践している例が、『生徒指導をハックする』に描かれていますので、ぜひ参考にしてください。

2026年10月18日日曜日

リーダーの仕事は人を動かすことではなく、学びが生まれる環境をつくることである

この記事「Quality Leadership Builds Learning Environments」は、スティーブ・バークレーが長年主張してきたテーマ――「リーダーの仕事は人を動かすことではなく、学びが生まれる環境をつくることである」を中心に論じた内容です。

主な要点は、次のようなものです。

 

1. 「教えること」と「学ぶこと」は違う

バークレーは、学校ではしばしば

  • 教えた
  • カリキュラムを終えた
  • テストした

ことが重視されるが、それは学びが起きたことを意味しないと指摘します。



彼によれば、
  • Teaching(教えること)は比較的管理しやすい
  • Learning(学ぶこと)は複雑で予測できない/しづらい

ものです。

つまり、教師は学習を直接起こすことはできない。学習が起こりやすい条件を整えることしかできない、という考え方です。

これは、ジョージ・クーロスの「学校での学び」と「学校外での学び」(『教育のプロがすすめるイノベーション』の138ページの図を参照)や、ナンシー・アトウェルが明らかにした「教える側の論理」と「学ぶ側の論理」(『イン・ザ・ミドル』の第1章を参照)とかなり近い発想です。

 

2. 優れた教師は「環境設計者」

記事では、良い学習環境とは

  • 安心して発言できる
  • リスクを取れる
  • 質問できる
  • 挑戦できる  環境だと説明されています。

教師の役割は、

  • 明確な期待を示す
  • 関係性を築く
  • 生徒の声を尊重する
  • 学習参加を促す ことです。その結果として、生徒自身が学習の主体になる。

という流れが生まれます。

 

3. 同じことが学校リーダーにも当てはまる

教室と学校を対応させます。

つまり、教師が子どもの学習環境をつくるように、校長やリーダーは教師が学び続けられる環境をつくらなければならないと主張します。


4. 管理(Management)とリーダーシップ(Leadership)は違う

記事で最も重要な部分の一つです。バークレーは、管理とは

  • 整理する
  • 手続きを守らせる
  • 計画を遂行する   ことだと言います。

一方、リーダーシップとは人々が学び、挑戦し、成長できる条件をつくることです。



 この表を見て、左側には「予測可能」、右側には「予測不能」が付け足せるかな、と思いました。あなたは、どんなことが付け足せますか?

 

5. 教師が安心して挑戦できる学校文化

バークレーは、「生徒に求める環境と同じものを教師にも保障する必要がある」と言います。つまり教師も

  • 意見を言える
  • 失敗できる
  • 質問できる
  • 学び続けられる  必要があります。

そのためにリーダーは

  • 信頼を築く
  • 教師の声を聞く
  • 教師の主体性を尊重する
  • コーチングや協働学習を支援する  ことが重要になります。

 

この記事を読んでいて興味深いのは、バークレーが一貫して「教えること」よりも「学ぶこと」に焦点を当てていることです。「教師は教えた。だから授業は成功した」という日本の授業観に対して、バークレーは「教えた証拠」と「学んだ証拠」は違うとはっきり述べています。さらに、学校リーダーについても「教師を管理する人」ではなく、「教師が学び続けられる環境をつくる人」として捉えています。教師は子どもの学習環境をつくり、校長やリーダーは教師の学習環境をつくるという二重の「学習環境づくり」の考え方です。この観点から見ると、研究授業や校内研修は、その環境に該当しているでしょうか? これまでに本ブログで紹介してきた方法では、何が「教師が学び続ける環境づくり」の具体的な方法に該当するでしょうか?

 

出典・https://barkleypd.com/blog/quality-leadership-builds-learning-environments/

このブログはインストラクショナル・コーチで、授業や学校改善コンサルタントのスティーブ・バークレー氏のものですが、この記事は彼の長年の主張を簡潔にまとめてくれているものの一つです。

2026年10月11日日曜日

教室には、教師の言うことを聞かない子どもが必要ですか? 従順さと民主的な学びの関係

授業中、「どうしてこの方法で解かなければいけないの? もうできるんだから、自由にやってもいいじゃん」と尋ねる子がいます。修学旅行や学校行事が詰まっているときに、「ハロウィンパーティーをやりたい!」と訴える子もいます。教師がその意図や価値を説明しても、簡単には納得してくれません。忙しいときほど、私たちは「まずは言われた通りにやってよ」と答えたくなります。教室を運営する立場からすれば、もっともな反応でしょう。しかし、その子が発した問いや意見を、私たちはどのように受け取っているのでしょうか。

 

学校では、時間を守り、指示を聞き、友だちと協力する子が「よい子」と評価されやすいもの。集団生活を送る以上、それらは必要なことです。しかし、教師の意図を素早く理解して動けることと、自分の頭で考えて判断できることは同じではありません。自分で考え、判断できる自律的な人を育てたいと願いながら、前者ばかりに価値を認めてはいないでしょうか。

 

「子どもの権利条約」第12条は、子どもが自分に関わる事柄について自由に意見を表明する権利を定め、「児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする」としています★。意見を聞けば、必ず採用しなければならないという意味ではありません。大切なのは、その意見を一人の人間の考えとして受け止め、判断の材料にすることです。

 

★日本ユニセフ協会 (https://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_rig_all.html)

 

ここでいう「教師の言うことを聞かない子」とは、教師の説明を鵜呑みにせず、「なぜ?」と問い、納得できなければ異議を唱えられる子のことです。もちろん、教師に従う子が自分で考えていないということではありません。大切なのは、子どもの判断が教師の期待と一致しなかったとき、その声にどこまで耳を傾けられるかということです。

 

こうした子どもを育てることは、決して簡単ではありません。むしろ、教師の権力と子どもの主体性をどのように両立させるのかは、民主的な教室をつくろうとする教師が、常に向き合わなければならない難しさだと思います。

 

子どもの主張を何でも受け入れてしまえば、声の大きい子の意見ばかりが通り、集団としての学びが成立しなくなることもあります。一方で、教師が力で押し切れば、子どもは言うことを聞くようになるかもしれませんが、それでは自分で考え、判断し、行動する力を育てることは難しいでしょう。

 

ただし、教師が権限を持つこと自体が問題なのではありません。その力を、子どもを従わせるために使うのか、それとも子どもが自分で考え、他者と共に生きていくことを支えるために使うのか。その違いが問われているのだと思います。

 

算数の授業で「もう分かっているから、みんなと同じことをしたくない」という子がたまにいます。その子の思いは大切にしたいものです。一方で、友だちと考えを伝え合うことによって生まれる学びもあります。教師の考えを押しつけるのでも、その子の希望をそのまま受け入れるのでもなく、互いが大切にしていることを伝え合いながら、学び方を考えていく。価値観をすり合わせていくには、時間がかかります。

 

そして、自分の考えを大切にすることは、自分の主張を押し通すことではありません。ハロウィンパーティーをやりたい子がいても、別のことをしたい子や、行事が続いて疲れている子もいるでしょう。自分の願いが尊重されるのと同じように、他者の願いも尊重されなければなりません。教師の言葉を鵜呑みにしないことと同じくらい、自分の考えも絶対ではないと知ることが、民主的な学びには欠かせないのです。

 

もちろん、こうした話し合いが、絵に描いたように美しく進むわけではありません。互いに不満を抱き、意見がぶつかり合い、何度話しても納得できないこともあります。それでも、諦めずに対話を重ね、相手が何を大切にしているのかを理解しようとする。その過程で、少しずつ互いの考えが変わったり、折り合いのつくところが見つかったりします。

 

一方、最後まで納得できないこともあるでしょう。民主的な話し合いとは、必ずしも全員が同じ考えにたどり着くことではありません。異なる意見を持ち続けながらも、相手を排除せず、共に生活していくことにも大切な意味があるはずです。

 

私は、こうした葛藤を抱えながら、時間をかけて対話を続ける過程そのものに、民主的な教育の価値があると考えています。

 

教育哲学者のガート・ビースタは、教育には教師の意図通りにならないという不確かさが伴うことを指摘しています。ビースタは、「教育は常に、たとえ善意に基づいていても、子どもには力の行使として現れます」(私訳)と述べています。教師がどれほど善意をもって働きかけても、そこには力の関係が存在します。そして、子どもはその働きかけを、教師が期待した通りに受け取るとは限りません。

 

ビースタが重視する「主体化(subjectification)」とは、単に子どもが自分の意見を主張できるようになることではなく、自分とは異なる他者や、思い通りにならない現実と出会い、その中で自分の自由をどのように使うのかという問題です★★。教師の意図に従わないことも、反対に自分の主張を押し通すことも、それだけで主体的だとは言えません。自分の考えを持ちながら、他者の存在によって自分の考えが問い直されることにも、教育の重要な意味があるのです。

 

★★PLC便り(2025年12月14日)「教育は予定調和ではない! 主体が立ち上がるとき、教室は揺れる 〜高学年を担任する『やりにくさ』から考える教育の意味〜」

https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/12/blog-post.html

 

 

だからこそ、民主的な教室づくりには対話が欠かせないのです。それは、子どもの意見を何でも認めることではありません。教師も自分の考えを伝え、必要なときには譲れない線を示します。同時に、子どもの主張によって、教師自身の考えが変わることもあるはずです。また、声を上げる子だけでなく、言葉にできない子や、沈黙している子の思いにも目を向けなければなりません。

 

そして、この問題は職員室にも当てはまってしまいます。「例年通りだから」という言葉で、新しい提案や疑問を退けてはいないでしょうか。もちろん、前例を大切にすることにも意味があります。しかし、それが異なる意見に耳を傾けない理由になってしまっては、対話は生まれません。子どもたちに自分の考えを伝え、他者と考え合うことを求めるのであれば、まず私たち教師自身が、異なる意見を安心して伝え合える職員室をつくる必要があるのです。

 

民主的な教室は、教師が判断を放棄する教室でも、全員がいつも納得している教室でもありません。異なる考えや不満を力で押さえ込まず、葛藤を抱えながらも、互いに理解しようと対話を重ねる教室です。ときには最後まで納得できないこともあるでしょう。それでも、異なる考えを持つ相手と共に生きていくこと。その難しさを子どもたちと一緒に引き受けていくことに、民主的な教育の価値があるはずです。

 

私たちが育てたいのは、いつでも教師に逆らう子ではありません。教師の言葉を鵜呑みにせず、自分の頭で考え、同時に自分の考えも絶対ではないと知る子どもです。そして、他者との違いに向き合いながら、共に生きる道を探そうとする子どもです。そのような子どもが安心して存在できる学校でありたいと思います。

2026年10月4日日曜日

学校を家庭と地域による協働の場に

小学校のコミュニティースクールの運営協議会に参加しました。熱心な保護者、献身的に学校をサポートしている地域の皆さん、働き方改革やAIの導入など、大きな変革期の真っ只中にある教職員のみなさん。それぞれの立場で、学校を良くしたいと尽力してくれている姿に心動かされました。

その会議では、学校ボランティアの登録の是非が主要な議題でした。現状どうなっているか質問したところ、学校にお手伝いが必要となった時に、地域のリーダー的な人や民生委員さんなどに個別のお願いして声をかけていたそうです。常設の地域学校協働本部はあるようなのですが、結局、この組織も関わっている一部の熱心な人たちによって支えられているに過ぎないとのことでした。PTAも同様なようで、いつも役員をしてくれるごく一部の人が動いているというのが実態のようです。

そこで、より多くの人に関わってもらうために、学校ボランティアの登録制度をつくろうということになったようです。登録用紙の記載内容や声がけの方法などについて、様々な意見が出されました。

年配の方のためには、やはり紙ベースでの募集が欠かせない。保護者には一斉送信が可能なツールを使うことができそう。自ら応募してきた人は、本当に信頼に足る人なのか、どうやって確認するのか?という声も上がりました。知り合いの人を通じた、口コミが安心なのではないか。地域の年配の方の中には、学校というところはまだまだ敷居が高いと感じている人も多いとの意見もありました。その人の意見では、学校が閉ざしているというよりも、自分自身が子どもたちの成長や安全に関わって大丈夫なのか?という良心的な姿勢によるものでした。みなさん、それぞれの立場で、誠実に学校と向き合おうとしている姿が印象的でした。

学校を、地域と保護者による「協働の場」★1 に変えるていくために、何ができるのでしょうか。特効薬のようなものはなさそうですが、この会議での議論された中から、いくつか拾って考えてみたいと思います。


(1)学校からの情報を出すこと。学校のすばらしい実践、子どもたちの取り組み、驚くようなストーリー。人々を引きつけることのできる情報を、計画的に、途切れることなく出していくことが、まずは大切だと思います。その際、やはりデジタルとアナログの両方で出していくことが、まだまだ必要だと感じました。SNSなどで、間断なく情報を提供しつつ、紙ベース、口コミベースでも出していく。そのためには、広報的な役割を担う人を専任で置く必要があるかもしれません。PTAの広報部といえば、PTA便りを年に数回発行するのが役割の場合が多いかと思いますが、根本的に見直す必要があるかもしれません。学校の情報を人々に伝えるためにツールやチャンネルを複数用意して、人とのつながりをつくっていきたい。

(2)学校に関わってくれた人たちの声を拾い、それを伝えていくこと。民生委員さんの話によると、子どもたちのために、何かをしたいと考えている人はいるけれど、自信が持てなかったり、不安に感じて、飛び込めないと感じている人が、結構いるらしい。そのような人の背中を押して、学校に向かわせるには、やはり、実際に関わったことのある人の声が決め手になることが多そうです。子どもたちの成長に貢献するよろこび、自分の身につけたものが次の世代に若者に伝わっていくよろこび。それらをもっと多くの人に感じてもらいたい。関わってきた人たちのよろこびを伝えていく必要がある。

(3)保護者を巻き込む手立て。これが最重要な課題だと思います。親の意識改革を促す手立てと言っても良いかもしれません。家庭が、子どもたちの学習エンゲージメントの貴重なリソースであるというのは、様々な研究に裏付けられた原則だと言えます。学習者の家庭生活には、教室でのエンゲージメントに影響を与える実に様々な側面があります。★2 親が家で読書を楽しんでいたら、子どもたちも本を読むのが楽しいと思うようになるだろうというのは、直感的にも納得できます。これはあくまで経験則ですが、きちんと、理由を説明して、情熱をもって説得するば、立ち上がってくれる親は、予想以上にいます。あきらめず、伝え続けていくことが大切だと思います。その意味では、学校リーダーそして保護者リーダー(PTA役員)の人たちの、重要な役割は、仲間を説得し、巻き込むだと思います。そこにまず注力してほしい。


この日の連携協議会での校長の最後の挨拶が印象に残りました。「地域や家庭の積極的な関与なくしては、これからの学校は成り立っていかない」。率直かつ切実な叫びなのだと思いました。



★1 ジョー・サンフォリポ&トニー・シナシス(2021) 『学校のリーダーシップをハックするー変えるのはあなた』新評論, p. 93-94.

★2 サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク, pp.33-35.

2026年9月27日日曜日

あなた(の周辺の人たち)は、X理論派? それともY理論派?(=総括評価派? 形成評価派?)

20年前に出た『効果10倍の教える技術』のなかでX理論とY理論が紹介されていました(下に紹介する表とは違いますが、56ページにマグレガーのX理論とY理論だけでなく、ロジャーズ伝達型の教育と体験重視の学習法との対比で紹介されています!)。

表1.2: 動機づけを高める指導・支援の2つの考え方

従来型(X理論)

支援・変革型(Y理論)

フィードバック/アドバイス

振り返り(リフレクション)

管理的な環境

成長を促す環境

階層的な構造(縦社会)

学習者のコミュニティー(センゲ、1990)

報酬・買収・罰

成長の承認

外発的動機付け

内発的動機付け

上司によるコントロール

内的なコントロール(自分自身が判断し、自分で方向づける)

行動の起点:他者(指示待ち)

行動の起点:自分(主体的な判断)

ボス型マネージャー(グラッサー、1992)

リード型マネージャー(グラッサー、1992)

労働=ノルマ・課せられたタスク(デミング、2000)

労働=喜び・やりがい(デミング、2000)

(他者からの)承認・許可

指導力(キャパシティー)の向上

実効性の根拠を他者に依存

自己効力感(自立した自信)

※フィードバックとは、「自分が相手の実践(仕事)をどう評価したか」を伝えることであり、本質的に「評価的(ジャッジメント)」なアプローチ。

 

X理論の立場をとる者はフィードバック(評価や指示)を用い、Y理論の立場をとる者は振り返り(対話と自立的な探究)を用います。両者の違いは、この点に典型的に表れています。同僚との関係や組織の中での関係が、評価や指導・指示が中心(X理論)か、それとも、振り返りの対話や(それに基づいた)自立的な探究が中心か(Y理論)というふうに。振り返りの対話や自立的な探究は、成長、学び、喜び・やりがい、能力や効力感の向上をもたらしますが、評価や指導・指示では、それらはつくり出せませんから、あるのはよくて停滞/維持で、悪ければ後退・悪化です。

以下は、生成AIとのやりとりです。

▼日本の研修は、残念ながらX理論をベースにしている。授業も。ということは教育全体が!

◆鋭いご指摘です。ダグラス・マグレガーのX理論・Y理論を「Motivational Supervision Paradigm(動機づけに基づく指導・校務監修のパラダイム)」に適用したこの表を見ると、日本の教育現場や研修がいかにX理論的(伝統的・統制型)な構造に依存しているかが浮き彫りになります。

この対比表の要素に照らすと、日本の学校現場や教員研修、ひいては教室での授業における構造的な問題点が明確に見えてきます。

X理論(伝統的・統制型)が引き起こしている構造

  • 外発的動機づけと他者評価への依存
  • 階層的構造と管理意識

 

この「X理論とY理論」と結構似たところがある(というか、コインの裏表の関係にあるんじゃないかと思える)「総括的評価と形成的評価」をうまく表している表もありますので紹介します。

表4.1 形成評価と総括評価の特徴

形成的評価(Formative)

総括的評価(Summative)

コーチ(伴走者)

裁定者(ジャッジ・評価者)

支援者・理解者(アドボケイト)

中立・第三者(ニュートラル)

継続的(日常的な営み)

単発的・一回性(イベント・行事)

流動的・柔軟(流れている)

固定化・静的(固定した)

成長を生み出す

現状の提示・格付け

学び(探究)

契約上の位置づけ(雇用・査定)

内省的(reflective)

評価的(evaluative)

あなたが関わるなら、表のどちら側により魅力を感じますか?

総括的評価に魅力を感じる人って、本当にいるんでしょうか?

しかし、現実的には、子どもたち対象に右側ばかりをやっているのが多くの日本の教師?

それが、ひいては成長マインドセットではなく、固定マインドセットを学校や社会の中に渦巻く要因になっています。下の表は、アメリカの数値ですが、

日本の小1、小2、小3の数値はどのくらいだと思いますか? 

小6、中1、中3、高2、高3、大2、大4のパーセンテージは?

そして、教師平均のパーセンテージはどのくらいでしょうか?

子どもたちだけで、わずか3~4年で成長マインドセットの割合が半分になりますか?

子どもたちの半分弱がわずか4年間で固定マインドセットにしてしまう要因にはどんなものがあるでしょうか?

上の表4.2の戻ると、あなたにとって一番気になった項目はどれですか?

私にとっては、「現状の提示・格付け」です。それが、「現状の維持や格差の拡大」につながっているとさえ思いました。それに対して、左側の形成評価には「成長、学び、流動的・柔軟、継続的」という言葉がありますから、救われるというか、ありがたいです。

一番下のreflectiveの日本語は「内省的」でピンときますか?

再び、生成AIとのやり取りです。

▼この最後の列の違いは何ですか?

◆結論からいきます。 内省的(reflective)と評価的(evaluative)の違いは、「目的」と「視線の向き」がまったく異なることです。日本の学校現場ではこの二つが混同されがちですが、本来は別物です。

内省的(reflective)とは、教え方と学びの過程を振り返り、次の改善につながる気づきを得るための働きです。観察・対話・問いかけ・課題や作品の検討などを通して、学びの証拠を意図的に集めるが、その証拠は「評価するため」ではなく、「改善するため」に使われます。視線は未来に向き、目的は成長です。

評価的(evaluative)とは、学びの到達度や質を判定するための働きです。証拠を集める点は同じでも、目的は「判定」であり、視線は現在の学習の位置づけに向きます。記述的記録・集計表・自己評価・課題・発表・実演などは、学びの質を判断するための方法として使われます。

Reflectiveとevaluativeの比較1

比較項目

内省的(reflective)

評価的(evaluative)

主な問い

「私は何を経験し、そこから何を学ぶか?」

「基準に対して、どのくらい達成できたか?」

基準のあり方

個人の内面や実践の文脈から生まれる

外的な基準、ルーブリック、目標など

主眼点

プロセス、気づき、自己の変容

アウトカム、成果、妥当性、質のエビデンス

性質

主観的・探索的

客観的・検証的

つまり、同じ「証拠」を扱っていても、内省的は改善のために使い、評価的は判定のために使うという違いです。日本の「見取り」は本来reflectiveであるべきなのに、しばしばevaluativeに変質してしまうため、あなたが感じている違和感はまさにそこにあります。

▼でも、そもそも「内省的」という訳でいいのでしょうか? どういう意味やらイメージがつきにくいです!

◆教育の文脈では、「内省的」よりも、「振り返り的/探究的/意味を考える/学びを探る」の方が実態に近いと思います。さらに、先ほどのReflective ↔ Evaluativeの対比で考えると、本質は内面を見るかどうかではありません。そうではなく、

Reflectiveとevaluativeの比較2

Reflective

Evaluative

理解しようとする

判定しようとする

問いを立てる

点数をつける

学ぶために見る

良し悪しを決める

好奇心

評価基準

という違いです。ですから、「内省的」よりも「探究的」あるいは「理解しようとする姿勢」の方が、この対比の本質を表しているように思います。

2026年9月20日日曜日

総括評価について考える ~ 災害支援で大切なDWATのアプローチの第2弾

9月8日号に「災害支援で大切なDWATのアプローチ」では診断評価と形成評価が鍵を握っていることについて書きました。そこでは、総括評価については一切触れませんでした。2学期制の学校や地域が増えているので、いまが丁度1学期の成績をつけている時期だと思います。自分たちがしていることの振り返りと改善に向けて考えるいいタイミングではないでしょうか?

 その際、避難所(ないし非難した地域)という「同じ場所にいても、一人ひとりの健康状態、生活歴、家族関係、必要としている支援は違う。その違いを把握し、その人にとって必要な支援を提供することが大切。避難所から次の暮らしにつないでいく大事な役割を担っている」のがDWAT(Disaster Welfare Assistance Team)です。そして、これらのほとんどは医師と看護婦で構成された命を守るための医療を提供することが目的のDMAT(Disaster Medical Assistance Team)にはできないことでもあります。

教室の中で行われている授業を考えたとき、教師の役割はDMATに近いのでしょうか? それとも、DWATに近いでしょうか?

是非ご自分で考えてみるか、知人に投げかけてみるか、生成AIの回答を求めるか(それとも、3つ全部を)してみてください。

教育とは何をすることで、教師の役割とは何なのかを深く考えることができますから、ぜひ!

 

 また、9月8日の記事を書いてから、災害支援では総括評価(学校での授業の場合は、成績)は何に相当するのか? その役割(というか位置づけ)は診断評価や形成評価よりも重要度が高いのか、それとも低い(あまり意味がない)のか考えました。

 災害の場合の総括評価(成績)として思いつくのは、直接死者数、災害関連死者数、そして重症患者の救命率でした。生成AIに「防ぎ得た災害死(Preventable Disaster Death)の数 」というのもあることを教えてもらいました。それが信ぴょう性のある数字として出てくるのかは大きな?マークが浮かびましたが。

 また、これらは、最終成果(下の④)であって、他にも①インプット、②プロセス、③アウトプットなどの指標もあることがわかりました。これらはすべて、DMATにまつわる評価指数です。

① Input(投入)

  • DMAT何隊派遣
  • 医師何名
  • 看護師何名
  • 車両何台

② Process(活動)

  • 何時間で到着
  • 何病院を支援
  • 何人搬送
  • 調整会議何回

③ Output(直接成果)

  • 搬送患者数
  • 支援病院数
  • 診療患者数

④ Outcome(最終成果)

  • 災害関連死減少
  • 防ぎ得た災害死減少
  • 医療崩壊回避

これらは、教育でいえば、通知表、定期テスト、入試結果、単元テスト、評定などに相当するものです。

 DWATに関連する指標を考えてみると、

  • 避難者が無事に仮設住宅や地域生活へ移行できたか
  • 災害関連死は防げたか
  • 要介護度の悪化は防げたか
  • 孤立した人を減らせたか
  • 被災者が自力で生活を再建できたか

などであり、DWATがしていることを見ると

  • アセスメント
  • ニーズ把握
  • 見守り
  • 環境改善
  • 支援への接続

などであって、彼らは最終結果を測るために活動しているわけではありません。

 つまり、DWATの努力とエネルギーの大部分は、「評価すること」ではなく「状況を改善すること」に向けられています。

 結果は大切ですが、結果そのものは人を救いません。人を救うのは、診断と支援です。

 

 教育も同じ構造をもっているのではないでしょうか? テストや成績は、学習を改善する直接の力をほとんどもちません(それらが行われたり、結果が出たときは、すでに学習は過去のものになっていますから!)。学習を改善するのは、

  • 子どもが今どこにいるのかを把握すること(診断評価)
  • 学習中に軌道修正すること(形成的評価)
  • 教師が個々の子どもにとって必要な支援を行うこと

です。つまり、学習改善への寄与について見ると、

診断評価 → 非常に大きい

形成評価 → 非常に大きい

総括評価 → 小さい(ほぼ皆無★)

となります。

 DWATとの比較で言えば、日本の学校はしばしば、総括評価を主役にしすぎていると言えます。DWATにたとえるなら、避難者を支援する時間よりも、避難者を点数化する時間の方が長い状態です。本来なら、DWATが行うアセスメントや継続的な見守りに相当する診断評価・形成評価こそが活動の中心で、総括評価は最後に位置づく補助的なものです。仕事そのものは、アセスメントと支援です。教育も、本来は同じではないでしょうか。

 いくら考えても、学びそのものに寄与しにくい「総括評価や成績つけ」に心血を注ぐのは愚かなことだと強く感じると同時に、これまでにそこへ費やしていた時間とエネルギーを、子どもたちの学びを促進する「診断評価」や「形成評価」へ大胆に振り向けられないかと、つくづく思う次第です。(教育の世界にどっぷり浸っていては見えないものが、今回、災害支援へのDMATとDWATのアプローチについて知ったことで、とても鮮明に見えるようになりました!)

 なお、DMATおよびDWATと教師の役割との関係について興味のある方は、pro.workshop@gmail.comへ連絡ください。喜んで共有させていただきます。

 

★ひょっとしたら、それがあることのプラス面よりも、弊害の方がはるかに大きいかもしれません。