2026年9月27日日曜日

あなた(の周辺の人たち)は、X理論派? それともY理論派?(=総括評価派? 形成評価派?)

20年前に出た『効果10倍の教える技術』のなかでX理論とY理論が紹介されていました(下に紹介する表とは違いますが、56ページにマグレガーのX理論とY理論だけでなく、ロジャーズ伝達型の教育と体験重視の学習法との対比で紹介されています!)。

表1.2: 動機づけを高める指導・支援の2つの考え方

従来型(X理論)

支援・変革型(Y理論)

フィードバック/アドバイス

振り返り(リフレクション)

管理的な環境

成長を促す環境

階層的な構造(縦社会)

学習者のコミュニティー(センゲ、1990)

報酬・買収・罰

成長の承認

外発的動機付け

内発的動機付け

上司によるコントロール

内的なコントロール(自分自身が判断し、自分で方向づける)

行動の起点:他者(指示待ち)

行動の起点:自分(主体的な判断)

ボス型マネージャー(グラッサー、1992)

リード型マネージャー(グラッサー、1992)

労働=ノルマ・課せられたタスク(デミング、2000)

労働=喜び・やりがい(デミング、2000)

(他者からの)承認・許可

指導力(キャパシティー)の向上

実効性の根拠を他者に依存

自己効力感(自立した自信)

※フィードバックとは、「自分が相手の実践(仕事)をどう評価したか」を伝えることであり、本質的に「評価的(ジャッジメント)」なアプローチ。

 

X理論の立場をとる者はフィードバック(評価や指示)を用い、Y理論の立場をとる者は振り返り(対話と自立的な探究)を用います。両者の違いは、この点に典型的に表れています。同僚との関係や組織の中での関係が、評価や指導・指示が中心(X理論)か、それとも、振り返りの対話や(それに基づいた)自立的な探究が中心か(Y理論)というふうに。振り返りの対話や自立的な探究は、成長、学び、喜び・やりがい、能力や効力感の向上をもたらしますが、評価や指導・指示では、それらはつくり出せませんから、あるのはよくて停滞/維持で、悪ければ後退・悪化です。

以下は、生成AIとのやりとりです。

▼日本の研修は、残念ながらX理論をベースにしている。授業も。ということは教育全体が!

◆鋭いご指摘です。ダグラス・マグレガーのX理論・Y理論を「Motivational Supervision Paradigm(動機づけに基づく指導・校務監修のパラダイム)」に適用したこの表を見ると、日本の教育現場や研修がいかにX理論的(伝統的・統制型)な構造に依存しているかが浮き彫りになります。

この対比表の要素に照らすと、日本の学校現場や教員研修、ひいては教室での授業における構造的な問題点が明確に見えてきます。

X理論(伝統的・統制型)が引き起こしている構造

  • 外発的動機づけと他者評価への依存
  • 階層的構造と管理意識

 

この「X理論とY理論」と結構似たところがある(というか、コインの裏表の関係にあるんじゃないかと思える)「総括的評価と形成的評価」をうまく表している表もありますので紹介します。

表4.1 形成評価と総括評価の特徴

形成的評価(Formative)

総括的評価(Summative)

コーチ(伴走者)

裁定者(ジャッジ・評価者)

支援者・理解者(アドボケイト)

中立・第三者(ニュートラル)

継続的(日常的な営み)

単発的・一回性(イベント・行事)

流動的・柔軟(流れている)

固定化・静的(固定した)

成長を生み出す

現状の提示・格付け

学び(探究)

契約上の位置づけ(雇用・査定)

内省的(reflective)

評価的(evaluative)

あなたが関わるなら、表のどちら側により魅力を感じますか?

総括的評価に魅力を感じる人って、本当にいるんでしょうか?

しかし、現実的には、子どもたち対象に右側ばかりをやっているのが多くの日本の教師?

それが、ひいては成長マインドセットではなく、固定マインドセットを学校や社会の中に渦巻く要因になっています。下の表は、アメリカの数値ですが、

日本の小1、小2、小3の数値はどのくらいだと思いますか? 

小6、中1、中3、高2、高3、大2、大4のパーセンテージは?

そして、教師平均のパーセンテージはどのくらいでしょうか?

子どもたちだけで、わずか3~4年で成長マインドセットの割合が半分になりますか?

子どもたちの半分弱がわずか4年間で固定マインドセットにしてしまう要因にはどんなものがあるでしょうか?

上の表4.2の戻ると、あなたにとって一番気になった項目はどれですか?

私にとっては、「現状の提示・格付け」です。それが、「現状の維持や格差の拡大」につながっているとさえ思いました。それに対して、左側の形成評価には「成長、学び、流動的・柔軟、継続的」という言葉がありますから、救われるというか、ありがたいです。

一番下のreflectiveの日本語は「内省的」でピンときますか?

再び、生成AIとのやり取りです。

▼この最後の列の違いは何ですか?

◆結論からいきます。 内省的(reflective)と評価的(evaluative)の違いは、「目的」と「視線の向き」がまったく異なることです。日本の学校現場ではこの二つが混同されがちですが、本来は別物です。

内省的(reflective)とは、教え方と学びの過程を振り返り、次の改善につながる気づきを得るための働きです。観察・対話・問いかけ・課題や作品の検討などを通して、学びの証拠を意図的に集めるが、その証拠は「評価するため」ではなく、「改善するため」に使われます。視線は未来に向き、目的は成長です。

評価的(evaluative)とは、学びの到達度や質を判定するための働きです。証拠を集める点は同じでも、目的は「判定」であり、視線は現在の学習の位置づけに向きます。記述的記録・集計表・自己評価・課題・発表・実演などは、学びの質を判断するための方法として使われます。

Reflectiveとevaluativeの比較1

比較項目

内省的(reflective)

評価的(evaluative)

主な問い

「私は何を経験し、そこから何を学ぶか?」

「基準に対して、どのくらい達成できたか?」

基準のあり方

個人の内面や実践の文脈から生まれる

外的な基準、ルーブリック、目標など

主眼点

プロセス、気づき、自己の変容

アウトカム、成果、妥当性、質のエビデンス

性質

主観的・探索的

客観的・検証的

つまり、同じ「証拠」を扱っていても、内省的は改善のために使い、評価的は判定のために使うという違いです。日本の「見取り」は本来reflectiveであるべきなのに、しばしばevaluativeに変質してしまうため、あなたが感じている違和感はまさにそこにあります。

▼でも、そもそも「内省的」という訳でいいのでしょうか? どういう意味やらイメージがつきにくいです!

◆教育の文脈では、「内省的」よりも、「振り返り的/探究的/意味を考える/学びを探る」の方が実態に近いと思います。さらに、先ほどのReflective ↔ Evaluativeの対比で考えると、本質は内面を見るかどうかではありません。そうではなく、

Reflectiveとevaluativeの比較2

Reflective

Evaluative

理解しようとする

判定しようとする

問いを立てる

点数をつける

学ぶために見る

良し悪しを決める

好奇心

評価基準

という違いです。ですから、「内省的」よりも「探究的」あるいは「理解しようとする姿勢」の方が、この対比の本質を表しているように思います。

2026年9月20日日曜日

総括評価について考える ~ 災害支援で大切なDWATのアプローチの第2弾

9月8日号に「災害支援で大切なDWATのアプローチ」では診断評価と形成評価が鍵を握っていることについて書きました。そこでは、総括評価については一切触れませんでした。2学期制の学校や地域が増えているので、いまが丁度1学期の成績をつけている時期だと思います。自分たちがしていることの振り返りと改善に向けて考えるいいタイミングではないでしょうか?

 その際、避難所(ないし非難した地域)という「同じ場所にいても、一人ひとりの健康状態、生活歴、家族関係、必要としている支援は違う。その違いを把握し、その人にとって必要な支援を提供することが大切。避難所から次の暮らしにつないでいく大事な役割を担っている」のがDWAT(Disaster Welfare Assistance Team)です。そして、これらのほとんどは医師と看護婦で構成された命を守るための医療を提供することが目的のDMAT(Disaster Medical Assistance Team)にはできないことでもあります。

教室の中で行われている授業を考えたとき、教師の役割はDMATに近いのでしょうか? それとも、DWATに近いでしょうか?

是非ご自分で考えてみるか、知人に投げかけてみるか、生成AIの回答を求めるか(それとも、3つ全部を)してみてください。

教育とは何をすることで、教師の役割とは何なのかを深く考えることができますから、ぜひ!

 

 また、9月8日の記事を書いてから、災害支援では総括評価(学校での授業の場合は、成績)は何に相当するのか? その役割(というか位置づけ)は診断評価や形成評価よりも重要度が高いのか、それとも低い(あまり意味がない)のか考えました。

 災害の場合の総括評価(成績)として思いつくのは、直接死者数、災害関連死者数、そして重症患者の救命率でした。生成AIに「防ぎ得た災害死(Preventable Disaster Death)の数 」というのもあることを教えてもらいました。それが信ぴょう性のある数字として出てくるのかは大きな?マークが浮かびましたが。

 また、これらは、最終成果(下の④)であって、他にも①インプット、②プロセス、③アウトプットなどの指標もあることがわかりました。これらはすべて、DMATにまつわる評価指数です。

① Input(投入)

  • DMAT何隊派遣
  • 医師何名
  • 看護師何名
  • 車両何台

② Process(活動)

  • 何時間で到着
  • 何病院を支援
  • 何人搬送
  • 調整会議何回

③ Output(直接成果)

  • 搬送患者数
  • 支援病院数
  • 診療患者数

④ Outcome(最終成果)

  • 災害関連死減少
  • 防ぎ得た災害死減少
  • 医療崩壊回避

これらは、教育でいえば、通知表、定期テスト、入試結果、単元テスト、評定などに相当するものです。

 DWATに関連する指標を考えてみると、

  • 避難者が無事に仮設住宅や地域生活へ移行できたか
  • 災害関連死は防げたか
  • 要介護度の悪化は防げたか
  • 孤立した人を減らせたか
  • 被災者が自力で生活を再建できたか

などであり、DWATがしていることを見ると

  • アセスメント
  • ニーズ把握
  • 見守り
  • 環境改善
  • 支援への接続

などであって、彼らは最終結果を測るために活動しているわけではありません。

 つまり、DWATの努力とエネルギーの大部分は、「評価すること」ではなく「状況を改善すること」に向けられています。

 結果は大切ですが、結果そのものは人を救いません。人を救うのは、診断と支援です。

 

 教育も同じ構造をもっているのではないでしょうか? テストや成績は、学習を改善する直接の力をほとんどもちません(それらが行われたり、結果が出たときは、すでに学習は過去のものになっていますから!)。学習を改善するのは、

  • 子どもが今どこにいるのかを把握すること(診断評価)
  • 学習中に軌道修正すること(形成的評価)
  • 教師が個々の子どもにとって必要な支援を行うこと

です。つまり、学習改善への寄与について見ると、

診断評価 → 非常に大きい

形成評価 → 非常に大きい

総括評価 → 小さい(ほぼ皆無★)

となります。

 DWATとの比較で言えば、日本の学校はしばしば、総括評価を主役にしすぎていると言えます。DWATにたとえるなら、避難者を支援する時間よりも、避難者を点数化する時間の方が長い状態です。本来なら、DWATが行うアセスメントや継続的な見守りに相当する診断評価・形成評価こそが活動の中心で、総括評価は最後に位置づく補助的なものです。仕事そのものは、アセスメントと支援です。教育も、本来は同じではないでしょうか。

 いくら考えても、学びそのものに寄与しにくい「総括評価や成績つけ」に心血を注ぐのは愚かなことだと強く感じると同時に、これまでにそこへ費やしていた時間とエネルギーを、子どもたちの学びを促進する「診断評価」や「形成評価」へ大胆に振り向けられないかと、つくづく思う次第です。(教育の世界にどっぷり浸っていては見えないものが、今回、災害支援へのDMATとDWATのアプローチについて知ったことで、とても鮮明に見えるようになりました!)

 なお、DMATおよびDWATと教師の役割との関係について興味のある方は、pro.workshop@gmail.comへ連絡ください。喜んで共有させていただきます。

 

★ひょっとしたら、それがあることのプラス面よりも、弊害の方がはるかに大きいかもしれません。

2026年9月13日日曜日

「すぐにわからなくてもいい」という学びがあっていい

 この夏、独立研究者の森田真生さんの講演を聞く機会がありました。テーマは「算数するって何?」でしたが、話は算数にとどまらず、子どもが学ぶとはどういうことか、教師はその学びにどう関わるのかというところまで広がっていきました。そこでの学びは私たち教師にとってとても意味のあるものだと思いますので、ここでいくつか共有します。

 

一つ目は、「学びには遅れがある」という話。

 

森田さんは、自身の子育ての経験を紹介してくれました。森田さんのお父さんは仕事が忙しく、子どもの頃には、一緒に遊んでもらった記憶もあまりなかったそうです。ところが、自分に子どもが生まれ、初めてその子を抱いて子守唄を歌ったとき、ふいに、かつて父親が自分を抱きながら歌ってくれた声がよみがえってきたと言います。子どもの頃にはその意味を十分に受け取れていなかったものが、自分が父親になった約30年後に、初めて「届いた」のです。

 

森田さんは、教師が子どもに投げかける言葉も同じではないかと話します。一生懸命伝えたからといって、その場ですぐに届くとは限りません。今日の授業で話したことが、今日理解されるとは限らないし、こちらが大切だと思って伝えた言葉が、そのときにはほとんど響かないこともあります。それでも、何年も経ってから「あの先生が言っていたのは、こういうことだったのか」と気づくことがある。逆に、いつ届くかを教師がコントロールすることはできません。だからこそ、教師にできるのは「今すぐわからせる」ことだけではなく、いつか届くかもしれない言葉を、心を込めて投げかけ続けることなのだと思います。

 

「高い山に登るためには、谷を歩く時間が必要だ」。算数が面白くない、わからない、少し離れたい。そんな時間も学びの一部なのだと森田さんは話します。いつも前よりできること、成績が上がることだけを求めると、子どもは「登り続けなければならない」状態になります。本当に遠くへ行くためには、一度下ることや立ち止まることも必要です。「わからない時間」を、教師がどこまで待てるか。これは今の学校にとって、とても大きな問いだと思いました。

 

二つ目は、AIと評価の話。

 

森田さんは、「何をすれば評価されるかがわかっていて、その通りにできること」を人工知能的な知能と表現していました。正解が決まっている問題に素早く正確に答えること、基準に沿って高い評価を取ること。もちろん、それも大切な力です。ただ、AIが急速に進歩する今、人間まで「評価されることを正確にこなす」方向だけに伸びていけばよいのか、という問いが生まれてしまいます。

 

森田さんが対照的に語っていたのが「天然知能」です。自分の知らないものに出会って驚くこと、意味や役立ちがまだわからないものに心が動くこと、予想もしなかった方向へ進んでいくことです。教師はつい、「この活動のねらいは何か」「何ができるようになったか」を明確にしようとします。しかし、子どもの学びには、まだ意味になっていないもの、評価の物差しでは捉えにくいものもあります。AI時代だからこそ、すぐに役立つことだけでなく、「なんだかわからないけれど気になる」という感覚を守ることが、これまで以上に大切なのかもしれません。

 

三つ目は、「子どもはコントロールできない」という話。

 

森田さんは、子どもを自然になぞらえ、教師にできるのは思い通りに動かすことではなく、よく観察し、今どんな動きが始まろうとしているのかに注意を向けることだと話していました。算数に少し興味を持ち始めた、友だちとの関係が少し変わってきた、今なら挑戦できそうだ。そうした小さな変化を見取り、そこに関心を寄せる。森田さんはそれを「ケア」と重ねていました。

 

若い頃ほど、教師として「何かをしてあげなければ」と思いがちです。授業を成功させたい、子どもを伸ばしたい、できるようにしたい。でも、学びは予定通りには進みません。すぐに届かない言葉があり、谷を歩く時間があり、こちらの想定を超える方向へ伸びていく子どもがいます。だからこそ、教師の仕事は、子どもの成長をつくることだけではなく、まだ見えていない変化に気づけるよう、そばに居続けることなのかもしれません。森田さんの話を聞きながら、そんなことを考えました。

2026年9月8日火曜日

「災害支援で大切なDWATのアプローチ」を教育に応用すると・・・・

NHKラジオの「けさの“聞きたい”令和8年熊本地震 DWAT 新たな災害支援の枠組み」を聞いていたら、DWAT(Disaster Welfare Assistance Team=災害派遣福祉チーム。Welfareは生活を守ることが目的)の活躍が最近の災害支援に欠かせなくなっていることが紹介されていました。医師や看護婦が災害地に入って活躍するDMAT(MはMedical、つまり医療、命を守ることが目的)はよく知られています。

 東日本大震災で、DWATの必要性が認識され、熊本は災害が多いことから、DWATの(平時から準備する)必要性を認識したそうです。一昨年の能登半島地震にも熊本のDWATは派遣され、次のようなステップで活動は行われたそうです。現地の状況を把握する先遣隊(初期アセスメント)➡どの程度の規模でどのくらいの期間派遣するかを決定➡その後に派遣された10チームは前の隊から情報を引き継ぐ形で活かされていく(形成的評価)。

災害関連死を防ぐのに大きな役割を果たすのがDWAT。避難所を場所として見るだけでなく、人として見る必要性。場所から人へ視点を転換することが大切。同じ場所にいても、一人ひとりの健康状態、生活歴、家族関係、必要としている支援は違う。その違いを把握し、その人にとって必要な支援を提供することが大切。避難所から次の暮らしにつないでいく大事な役割を担っている。つまり、「避難所で支える」から「地域で支える」への転換をサポートする役割。

 以上が、ラジオで紹介されたDWATの概要です。特に、ひっかかった点は以下の二点です。

①     初期アセスメント(診断的評価)の大切さと、その後の形成的評価の大事さ。

②     そして何よりも、「同じ場所にいても、一人ひとりの健康状態、生活歴、家族関係、必要としている支援は違う。その違いを把握し、その人にとって必要な支援を提供することが大切。避難所から次の暮らしにつないでいく大事な役割を担っている」は、そのまま教室の中で行われている授業にも活かさないとまずいと思いました。

①については、『一人ひとりをいかす評価』、②については、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』が参考になります。

出典:https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=J8792PY43V_02_4329876&cid=jp-J8792PY43V (1週間後の9月15日(火)午前7:50まで、この聴き逃しが聞けます。)

2026年9月6日日曜日

教育でイノベーションは起こりにくい?

学校は変化を嫌う体質であると言われてきました。私は、長く学校教育に、様々な形で学校教育に関わってきました。高校教員として、教育行政として、大学教員として、そして、保護者としてです。やはり、学校は変わらない組織であるというのが実感です。実際、変わらない学校に対する考察はネット上でも多く見られます。★1

なぜ、学校は変わらないのか、変化を拒むとする要因を考えてみます。

第一に、教育というものの本質に関わる特殊性でしょう。変革を成長の糧として、新しいことにトライするビジネス界とは異なります。失敗すれば、修正すればいいというチャレンジはなかなか受け入れられない。子どもたちの未来、すなわち、成長や受験、就職といった人生の大きなハードル対して、実験的な試みを行うことは、かなり勇気がいることです。実験はできない。また、新しい取り組みの良し悪しを、短期的なデータで示すことはできても、子どもたちの長期的な成長までもは、見定めることが難しい。そのため、前例踏襲主義に陥りがちですし、新しい試みよりも、「これまで通り」が優先されがちです。新しい挑戦で成果を出すよりも、安全第一に、ミスやトラブルを少なくしたいという意識が働きがちです。

第二に、ステークホルダー(利害関係者)の多様さがあると思えます。教員、保護者、地域住民、教育委員会など多くの人が関わります。トップダウンで物事を進めることは嫌われる傾向もあり、関係者の合意を作り上げるには、膨大な時間と労力がかかるものです。また、保護者を含めて教育に関わるすべての人が、自分が受けてきた教育に「馴染み」があり、それが基準になりがちで、新しい変化や挑戦に反発を感じやすい傾向があると言えます。

第三に、多忙を極める学校現場の実情があります。授業、部活動、生徒指導、事務処理、保護者対応など、毎日毎日、それらに忙殺されています。新しい仕組みを学び、それらを取り入れようとする、精神的余裕も、時間的余裕もないと、痛感している教員が多いと感じます。

これらの要因が根強くある中で、教育にイノベーションを起こすことは、容易ではなさそうです。

ただし、一つだけ楽観的な見通しを与えてくれるのは、子どもたちが持っているポテンシャル、可能性を、自らの力で切り開くことは、できるということです。全体主義国家のように、思想や行動が制限されることはない。自ら進みたい方向に進む権利も、チャンスもある。極めて保守的で、これまで通りの教育が維持されたとしても、それをも突き破り、学び成長する子どもたちは必ず出てくる。子どもたちが伸びゆくことは許される社会にいるのです。

そうであるとすれば、なおさら、教育にイノベーションをもたらすことの意義は大きいと言わざるを得ません。子どもたちのポテンシャルを、今よりも、何倍も、何十倍も大きく発揮させられる方法があるとするのなら、そこに賭けるしかない。現状に留まるのは、罪深いことであるのかもしれません。

子どもたちの可能性を、最大限に引き出すことのできる新しい教育。これまでにない教育。今、私たちは、それを見据えた、大きな変革のうねりの中にいる。

私たちが、一歩を踏み出す勇気をもつことです。★2


★1「学校教育、変化嫌う体質から脱却できるか」

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE023WV0S1A101C2000000/

「【学校はなぜ変われないのか】本気で変化を望むならば「変えようとしないことが大事」という驚きのシステム思考」

https://diamond.jp/articles/-/345939

など多数


★2 新しい授業を創造する本・新しい教育を考える本

https://www.shinhyoron.co.jp/3331.html


2026年8月30日日曜日

保護者との前向きな関係を育てるための20のヒント

私たちは、書類の整理、授業の準備、そしてたくさんの生徒の対応を同時にこなす忙しい一日の中で、教師としての仕事を大きく支えてくれるはずの集団――保護者/家族――の存在を、つい忘れてしまうことがあります。ここでは、この大切な集団とのつながりを深めるためのヒントを示します。

1 保護者に会ったら笑顔であいさつをしましょう。ほとんどの保護者は、教師と接する機会がそれほど多くありません。だからこそ、あなたと保護者の出会いの9割以上が、前向きで、温かく、親しみのあるものになるよう心がけてください。廊下でのほんの短い出会いで残る印象は、長く続きます。

2 保護者の名前を覚えましょう(担任として一つの学級を受け持っている場合)。保護者がどのように呼ばれたいか尋ねてみましょう。

3 自分の意図を伝えましょう(保護者と協力したいこと、支えてくれることへの感謝、そして一緒に取り組めることを楽しみにしていることを伝えます)。

4 さまざまな形で、頻繁に連絡しましょう。授業で何が起きているかを知らせます(週ごとが理想的です)。生徒が学んでいること、達成したこと、あなたが楽しみにしていること、生徒が楽しみにしていること、そしてあなたが見ている学びや成長について伝えます。保護者が子どもに尋ねられることを提案します。「先週、子どもたちが学んだゴミムシダマシの幼虫のことを聞いてみてください」とか、「書いた俳句を読んでもらってください」などです。

5 前向きな電話を家庭にかけましょう。担任として一つの学級を受け持っている場合は、最初の数週間のうちに全家庭へ電話をし、その後も一年を通して定期的に連絡します。多くの生徒を教えている場合は、特に前向きな連絡を必要としている生徒を選んで電話します。

6 良い知らせから始めましょう。保護者に電話をしたり、心配事について話し合うときは、まず肯定的な評価を伝えます。どの生徒にも必ず良いところがあります。それを見つけ、伝え、そのあとで心配している点を共有します。この順番は、とても大切です。

7通訳を探しましょう。保護者の言語を話せない場合は、少なくとも一度は通訳を入れて保護者会や電話連絡をします。(あまり使われていない言語の場合は、難民支援センターなどの公的機関が助けてくれることがあります。)その保護者にも必ず働きかけ、できる限りつながりをつくります。

8 あなたの言葉は力をもちます。言葉は、家族の形が多様であることへの理解を伝えます。母親が結婚しているかどうか、また結婚している場合に相手が男性かどうかを、決めつけないよう注意します。開かれた質問の仕方を学び、保護者や後見人が話したくない情報もあることを理解しましょう。

9 子どもについて質問しましょう。「学校の外ではどんなことをするのが好きですか?」「その子の人生で特別な存在は誰ですか?――家族でも、家族ぐるみの友人でも」「その子のいちばん良いところは何だと思いますか?」「小さい頃はどんな様子でしたか?」など、あなたが生徒を知ろうとしていることを示します。

10 保護者の話を聞きましょう。本当に耳を傾けます。保護者は自分の子どもについて、非常によく知っています。

11 保護者と話すときは、子どもに笑顔を向けましょう。保護者の前で子どもと話すときは、笑顔で目を合わせ、あなたがその子を大切に思っていることを示します。保護者の前で、その子が授業でうまくできていることを認めます。そのうえで、もし心配な点があれば共有します。

12 保護者に語ってもらいましょう。年度/学期の初めに調査用紙を配ります(保護者が英語を読んだり書いたりできない場合は、生徒がインタビューして答えを伝えることができます)。保護者がどんなことを知っていて、どんなスキルをもっているかを知ります。特に授業内容とつながる場合は、保護者を招きます。文化的な伝統、興味、情熱、スキル、知識をあなたに共有してもらいます。

13 保護者がどのように助けられるかを伝えましょう。多くの保護者は手伝いたいと思っていますが、子どもが大きくなるにつれて頼まれる機会が減り、どうすればよいかわからなくなります。教室で保護者が助けられる方法は、必ず何かあります。

14 家庭で子どもを支える方法を具体的に示しましょう。「答えの出し方を説明してもらうことで、算数の宿題を手伝えます」とか、「夜に物語を読むとき、次に何が起こるか予想させてください。これは読解力を強めます」などです。

15 支援につながる窓口になりましょう。保護者が心配事を共有したときは、助けを得られる方向を示せるよう準備します。あなたが心配事を共有する場合(「お子さんは授業中にぼんやりして注意が向きません」など)も、保護者ができることを提案できるようにします。

16 自分の教え方の方法や判断について説明しましょう。時間をとって説明し、教育の仕組みに慣れていない保護者には学べるよう手助けします。あなたが何をしていて、なぜそうしているのかを理解してもらいます。

17 いくつかの決定に保護者を参加させましょう。意見を求め、判断の助けになる情報を提供し、保護者の結論に耳を傾けます。

18 保護者に感謝を伝えましょう。個別にも、公の場でも(週の通信などで)支援への感謝を伝えます。保護者がしてくれていること、それが生徒にどのような影響を与えているかを認めて伝えます。

19 功をすべて共有しましょう。子どもがうまくできていること、身につけた学力や社会的な力、知識などを保護者に知らせます。

20 保護者を招いて、共に祝い、食事を分かち合いましょう。人が集まり、祝い合うとき、コミュニティーは強まります。年度/学期の初めに持ち寄りの会を開きます。食べ物を分かち合い、食べ物にまつわる物語を語り合います。食べ物は人を結びつけます。

 

出典・https://www.edutopia.org/blog/20-tips-developing-positive-relationships-parents-elena-aguilar

幼保時代は、教師と保護者の関係はかなり近いですが、小学校に入ると同時に疎遠になります。『教師のためのアート・オブ・コーチング』(図書文化)の著者のエリーナ・アギラーさんのヒント集のなかには日本にはそぐわないものもありますが、アメリカではどのような努力がなされているかがよくわかると思います。ヒントとして役立ててください。

2026年8月23日日曜日

あなたは、なぜ教えるのですか?

以前の記事で、私は生徒とつながることの大切さ、そしてその一つの方法として生徒の物語を引き出すことについて述べました。

同じように、私は他の教師ともつながる必要があります。そこで「あなたは、なぜ教えるのですか?」と尋ねます。ほとんどの教師は、この問いを投げかけられると夢を見るような表情になります。しばらく考えていなかったからです。

私たちがなぜ教えるのかという理由を思い出し、それをいつも新鮮なまま心の中心に置いておくこと――それこそが、長くて大変な一年間の学校生活を支え続けるための鍵だと私は思います。

私はなぜ教えるのか

私が教えるのは、私にとってそれが世界を変える最も効果的で、そして最も楽しい方法だからです。結局のところ、私たちはこの世界を変える必要があり、私はそのための方法として教えることを選んでいます。教えるという営みは、人の心と考え方に働きかけ、力をつけ、読み書きができ、夢中で取り組み、創造的で、解き放たれた人間へと導くことを可能にします。そしてそうした人々が、世界を変える取り組みに参加したいと思うようになるのです。

私はその変化が実際に起きるのを見てきました。生徒が読み書きができるようになり、高校を卒業するだけでなく、自分を変え、自分自身を見いだすことができると、私はずっと信じてきました。しかし今、その瞬間を目の当たりにしています。小学校や中学校で教えた生徒たちが高校を卒業し、自分の技能や情熱を発見し、大学へ進んでいく姿を見ています。私はいつも「彼らならできる」と思っていましたが、今まさに彼らはそれを実現しています。だから私は教えるのです。

私が教えるもう一つの理由は、うまくいかなかった子どもたちがいるからです。何年も前に私が教えた、優しくて、聡明で、穏やかな6年生の何人かは、今は路上にいたり、ギャングになったり、刑務所に入ったり、トラブルの中にいます。彼らの名前と顔はすぐに思い浮かびます。12歳だった頃の、探求するような表情、鋭い質問、音楽の作品、演技の才能を私は鮮明に覚えています。私は彼らを小さな男の子として知っていました。今はもう、あの頃の姿ではありません。胸が痛みます。(サンフランシスコの対岸にある)オークランドではあまりにも多くの子どもたちを失っているので、私は教え続けています。

私が中学校で働くのは、そこでの戦いが最も激しくなる一方で、問題をまだ逆転できる場所だからです。私は中学生が大好きです。彼らの知的な位置と感情の位置が大好きです。6年生(アメリカでは、中学1年生)頃にならないと準備が整わないような厳密な議論に彼らを夢中で取り組ませることができるのが好きですし、ときどきハグをもらえるのも好きです(小学生は一日に8回ハグを求めてきますが、中学生はそうではありません)。中学校なら、まだ彼らの人生を変えることができます。私はそれを知っています。実際に見てきたからです。

 私はこれらの理由、そしてほかのすべての理由を、かなり頻繁に自分に思い出させています。子どもを教えることも、大人を教えることも、大変です――本当に、本当に大変です。だから私は、なぜこの仕事をしているのかを定期的に思い出す必要があります。壁には何十もの視覚的なヒントになるものを貼っています。引用句、昔の生徒の写真、生徒の作品や文章です。うまくいった生徒の名前と、うまくいかなかった生徒の名前を並べています。家族の写真もあります。私がこの仕事をするのは息子のためでもあり、母や祖母の存在があるからでもあり、そして夫の尽きることのない支えがあるからです。私は、この仕事を選んだ理由に、自分の知的・感情的な受信装置のピントを常に合わせ続ける必要があります。なぜなら、この仕事は本当に大変で、疲れ果てるもので、終わりがなく、圧倒されることも多いからです。

では、あなたはなぜ教えるのですか? なぜ読み書きや科学や芸術を教えるのですか? なぜ幼稚園児や9年生(日本の高校1年生)や大学生を教えるのですか? あなたの物語を語ってください。ここで語り、新しい学期の始まりに同僚と語り、生徒とも語ってください。

そして何よりも、自分がなぜ教えるのかを思い出してください。

出典・https://www.edutopia.org/blog/sustaining-passion-reasons-teaching-elena-aguilar

この記事の執筆者のエリーナ・アギラーさんは、『教師のためのアート・オブ・コーチング』(図書文化)の著者で、コーチングや教員研修を中心に10冊近くのとても中身の濃い本を書いています。その中身の濃さを、唯一邦訳のある『教師のためのアート・オブ・コーチング』でぜひ味わってください。