2026年3月8日日曜日

良い授業をまねしても、なぜ同じようにうまくいかないのか「教育実践の文脈と教師の省察」

 年度末になると、学校研究の発表を参観する機会が増えます。公開授業を見て「これはすごい授業だ」と感じた経験はないでしょうか。そして、その方法を自分の教室でも試してみたものの、思ったほど子どもたちが動かなかった。そんな経験をされた先生方も少なくないはずです。私自身もその一人です。優れた授業を見るほど、「なぜ自分の教室では同じようにいかないのだろう」と戸惑うことがあります。

 

これは授業研究に限ったことではありません。海外の教育実践を紹介した書籍を読んだときにも、同じような感覚を抱くことがあります。優れた実践が紹介されているのに、なぜそのまま広がらないのでしょうか。

 

最近、哲学対話について学ぶ機会がありました。日本で広がっている比較的自由なスタイルの哲学対話は、ハワイを経由して紹介された実践であることを知りました。一方で、本来の哲学対話は、哲学的な問いを丁寧に扱いながら、関連する知識にも触れつつ思考を深めていく営みだとされています。しかし、そのような実践が日本で広く根付いているかというと、必ずしもそうとは言えません。このことを知ったとき、海外で生まれた教育実践はなぜ同じ形では広がらないのかという疑問を抱きました。

 

教育研究では、教育実践はその場の「文脈」から切り離せないと考えられています。LaveWengerは、学びを個人の頭の中の活動ではなく「社会的実践への参加」と捉えました。学びは、人間関係や活動のルール、学校文化といった環境の中で形づくられるものだという考え方です。またNuthallの教室研究では、子どもの学びは教師の説明だけで決まるのではなく、友だちとの会話やこれまでの経験、個人的な関心など、多くの要因が重なり合って生まれることが示されています。

 

つまり、外から見える授業の形は結果に過ぎません。その背後にある人間関係や活動の文化こそが、学びを支えているのです。

 

この点について、StiglerHiebertの比較研究は興味深い示唆を与えています。彼らは日本、アメリカ、ドイツの授業を比較し、それぞれの国に固有の「授業文化」が存在することを明らかにしました。教師の問いかけ方や問題の扱い方は、個人の技術というよりも、その社会の教育観や価値観の中で長年育まれてきた文化なのです。そのため、他国の優れた方法を形だけ取り入れても、本来の意味や役割がそのまま再現されるとは限りません。

 

日本の教育学者である佐藤学も、教育実践はその場の文脈に強く依存する営みであると指摘しています。授業は単なる指導技術の集合ではなく、教師と子どもの関係性や学級文化、学校の歴史などが重なり合う中で成立します。ある授業が成功しているとき、その背景には教材の工夫だけでなく、長い時間をかけて築かれた信頼関係や、その教室に特有の学びの文化が存在しています。こうした基盤を無視して方法だけを取り出しても、同じ結果を生み出すことはできません。

 

それにもかかわらず、私たちはしばしば「優れた方法を正しく適用すれば、どこでも同じ成果が得られる」と考えてしまいます。ドナルド・ショーンは、このような考え方を「技術的合理性モデル」と呼び、その限界を指摘しました。現実の専門職の仕事は、理論通りに進む整然とした世界ではなく、予測できない出来事が次々に起こる「泥濘の地」で行われるものだといいます。教室もまさにそのような場です。子どもたちの反応は常に予測を超え、授業はその場の状況の中で形づくられていきます。

 

では、他者の実践から学ぶ意味はどこにあるのでしょうか。重要なのは、実践をそのままコピーすることではなく、その背後にある原理を理解することです。教育プログラム研究では、これを「忠実性」と「適応」のバランスとして説明します。元の実践の核心となる考え方は大切にしながら、具体的な方法は自分の教室の文脈に合わせて再構成するという考え方です。

 

例えば、ある教師がペアワークによって豊かな対話を生み出していたとします。学ぶべきなのは「ペアワークという方法」そのものではありません。なぜそのタイミングでペアをつくったのか、どのような言葉を拾って対話をつないだのかといった、判断の背後にある原理です。その原理を理解したうえで、自分の教室の子どもたちの関係性や学習状況に合わせて実践を組み立てていくことが求められます。

 

その過程で重要になるのが、ショーンが提唱した「省察」です。教師は実践を振り返りながら学び、さらに授業の最中にも状況を読み取りながら判断を修正していきます。授業の中で「何かうまくいかない」と感じたときこそ、教師は子どもたちを注意深く観察し始めます。そうした問いと振り返りの積み重ねが、実践を少しずつ深めていきます。

 

海外の教育実践や他者の授業から学ぶことには大きな意味があります。自分の教室だけでは気づきにくい視点や可能性に出会えるからです。ただし、それをそのまま取り入れることが目的ではありません。大切なのは、その実践の背後にある学びの原理を理解し、自分の教室の子どもや学校文化に合わせて再構成することです。

 

教育に、どこでも通用する唯一の正解はありません。しかし、それはむしろ希望でもあります。目の前の子どもたちの文脈を最もよく理解しているのは、その教室にいる教師だからです。他者の実践はコピーするものではなく、自分の教室を見直し、新しい学びを生み出すための手がかりなのです。

 

2026年3月1日日曜日

『インストラクショナル・コーチング 授業と学校を変革する教師の最強パートナー』が発売

 PLC便りでもたびたび紹介してきたインストラクショナル・コーチングに関する本が出版されました。ジム・ナイト著『インストラクショナル・コーチング: 授業と学校を変革する教師の最強パートナー』(https://www.amazon.co.jp/dp/4810067955)です。★ インストラクショナル・コーチという職業自体まだ我が国には存在していませんし、インストラクショナル・コーチングに関する書籍は、同書が日本初とのことです。


インストラクショナル・コーチングとは何か?なぜ、導入するのか、今一度その意義を考えてみたいと思います。

コーチという言葉はスポーツなどで日常的に目にしますが、近年、普及してきた人材開発やコミュニケーション手法としてのコーチングについては、まだまだ馴染みがない人も多いのではないでしょうか。このコーチングのポイントは、コーチは、答えを授ける人ではなく、クライアントが自ら答えを見つけ出すプロセスに、対話を通じて関わるということです。

インストラクショナル・コーチングの中核にある考え方に、「パートナーシップの原則」があります。この中に、従来の方法とは決定的に違う考え方を見出せると思います。本書の第一章に次のような一節があります:

「パートナーシップの原則を採用しようと思ったら、まず自問してください。「私は、ほんとうに権限を捨てる覚悟があり、躊躇せずできるのか」「私はほんとうに、自分と共に成長する教師に、彼らが授業でしようとすることを任せられるのか」、自分自身の考えや言葉、行動を深く吟味して、これらの質問に答えてください。ビデオを撮るのは、このようなタイプの学びに最適です。録画を観ればコーチングにおける会話がつぶさにわかりますし、自分が話したりアドバイスをしたりするよりも聴こうとしているかや、問いかけることと伝えることのバランスがとれているかが、わかるからです。

 パートナーシップは、逆説的だと思われるかもしれませんが、私たちが他者に影響力を行使しようとしなくなればなるほど、より大きな影響力をもつことになるのです。」(pp.50-51)

このような考え方を、明確に打ち出した、教員の研修やワークショプはこれまでにあったでしょうか?

筆者ジム・ナイト氏は、「結語 コーチングと豊かな人生」の中で、「私は、インストラクショナル・コーチ以外の職業についている自分の姿を想像することができません。(p.234)」とまで述べています。コーチの行うほとんどすべてのことが、価値ある豊かな人生と関係していると確信しているからだと言います。

いま学校は、多くの課題を抱えて疲弊しています。さらには、探究的な新しい学びへの転換、学習の個別化の推進など、新しいテーマも目白押しです。

そのような中で、さまざまな問題や課題と向き合いながら、学び成長していってほしい。教師として、豊かで価値ある人生を送ってほしい。そのための、学びと成長の機会を提供するのがインストラクショナル・コーチングだと思うのです。

本書の表紙カバーの折り返しには大きく「あまりに孤独で多忙な教師の仕事」と書かれています。それに対して「教師と共に成長しようとする新しいリーダー像は、日本の教育に変革をもたらす、最後のピース(希望の光)となるでしょう!」と結んでいます。

インストラクショナル・コーチングが、日本の教育を変革していく、希望の光になるか、ぜひ、一緒に考えていきたいと思っています。


◉本書を使ったブッククラブやワークショップを企画中です。具体的な企画が、決まりましたら、お知らせします。


★ ジム・ナイト著(蘆田亮介・長﨑政浩・吉田新一郎訳)(2026)『インストラクショナル・コーチング: 授業と学校を変革する教師の最強パートナー』図書文化社.

[原著 Jim Knight (2022) The Definitive Guide to Instructional Coaching - Seven factors for success, ASCD.]


2026年2月22日日曜日

教科(カリキュラム)の統合はなぜ効果的なのか

 去年の12月に『教師のためのアート・オブ・コーチング』という本を出したのがきっかけで、その著者のエリーナ・アギラ―さんがあちこちに書いた無料で読める記事(ブログ等)を読んでいます。ここで紹介するのは、彼女が17年前の2008年9月23日に書いたものです。この記事から、彼女がカリキュラムの統合に大きな価値を見出していたことがわかります。

   *****

 カリキュラムを統合することには、大きな意義があります。ある教科で身につけた力を別の教科でも使って練習でき、その結果として本当に使いこなせるようになるからです。★ また、私たちが社会で経験していることに近い、より「本物の学び方」にもなります。さらに、難しそうに感じたり、自分には関係ないと思ったりしてしまう教科に対しても、生徒の興味を引きつけるきっかけになります。

そして、とても幸運な場合には、カリキュラムの統合が、生徒が自分の「情熱」を見つけるきっかけになることがあります。夢中になれることを見つけると、生徒はさまざまな困難を乗り越え、高校を卒業し、大学へ進んで自分の夢を追いかけようとします。私が働くカリフォルニア州オークランドでは、こうした成果は、文字どおり「一つの命を救う」ことにつながるのです。

教科横断的な学びの意義を語ろうとすると、私は真っ先にジョージのことを思い出します(ここに出てくる生徒の名前はすべて仮名です)。もし、ケイコ・スダ先生が彼に7年生のときビデオカメラを手渡していなかったら、彼はどうなっていただろう――そんなことを考えずにはいられません。

 

カリキュラム

ケイコ・スダ先生は、ジョージが 7年生だったときの数学と理科の担当教員でした。彼女には、カリフォルニア州の7年生向け基準の一部として、細胞生物学を教えることが求められていました。スダ先生と私が共に教えていた ASCEND Schoolhttps://www.ascendtk8.org/ では、教師が「広く浅く」ではなく 深い学びを重視したユニットを開発すること、そして 学んだ知識を別の文脈へ応用できるように指導することが奨励されていました。(学校については、https://www.edutopia.org/little-school-that-did と https://www.edutopia.org/video/students-learn-make-difference  を参照。)

スダ先生は、「HIV/AIDS は私たちに身体的・社会的にどのような影響を与えるのか?」という探究質問を軸に、1学期間の HIV/AIDS 研究ユニットを設計しました。生徒たちは免疫系や細胞生物学について学び、HIV/AIDS と共に生きるとはどういうことかを探究しました。

学習のまとめとして、生徒たちは 脚本執筆・監督・制作・編集・出演まで自分たちで行う映画をつくり、この探究質問に答えました。あるクラスは HIV と共に生きることの社会的側面を描き、もう一方のクラスは 免疫系で何が起こるのかを表現しました。

 

学びの証拠

優れた教師は、ユニット(単元)の途中と終了後の両方で学習状況を評価しています。そして、その評価は 学びの証拠 に基づいて行われる必要があります。スダ先生が行った形成的評価と総括的評価★★は、生徒たちが科学の基準を十分に習得していることを証明するものでした。しかし、これは物語の始まりにすぎませんでした。

その学期のあいだ、私は生徒たちが HIV に関する知識を別の領域へ応用している様子を目の当たりにしました。スダ先生の隣の仮設教室で、私は同じ生徒たちに歴史と英語を教えていました。その学期のテーマは ペスト(黒死病)で、生徒たちはこの疫病が中世ヨーロッパの社会・経済・政治・宗教の構造をどのように変えたのかを探究しました。

学習を始めて間もない頃――彼らが HIV の学習を始めて数週間後のことです――生徒のひとりが最初に投げかけた質問が、「ペストのとき、誰がスケープゴートにされたの?」というものでした。彼女は、HIV 陽性者が直面してきた状況を理解したうえで、別の疫病でも同じようなことが起きたのではないかと推測したのです。そして、その推測は正しく、まさに 深い学びが起きている証拠でした。

 私のクラスでのまとめのプロジェクトは、ドラマ(劇)の上演でした。生徒たちは、スダ先生と学んだ概念をペストの理解に応用しながら、このプロジェクトのために脚本づくりや演技のスキルも磨き上げていきました。

私自身がウイルスについてより深く理解できるようになったのは、スダ先生と生徒たちが作った映画のおかげです。ネスターが演じた「HIV 細胞」の恐ろしい描写は、HIV がどのように働くのかを、私の脳に永遠に刻みつけました。映画『One Strike』の中で、彼は縛られて動けない免疫細胞の上に不気味に浮かびながら、こう宣言します。「お前はこれから俺の宿主だ。中に入り込み、お前の核を乗っ取ってやる。」このセリフは、印刷物で読んだときには決して覚えられなかった情報なのに、私の脳のどこかの受容体にしっかりと結びついてしまったのです。

深い学びの証拠は、生徒たちが ASCEND School を卒業し、高校へ進んだあとにも現れました。9年生になったマリアは、HIV に感染した若い女性を描いた詩を書きました。何千もの応募作品の中から、彼女の胸を打つ詩は、作家アリス・ウォーカーが主催するコンテストで賞を受けたのです。

 

映画づくりが足場になるということ

しかし、カリキュラム統合の力を示す圧倒的な証拠として私の心に浮かぶのは、やはりジョージのことです。ジョージにとって、ケイコ・スダ先生のクラスで映画をつくった経験は、人生で初めての「映画制作との出会い」でした。その瞬間から、彼はすっかり魅了されてしまったのです。幸運なことに、彼はオークランドの高校で、自分の情熱を追いかけるための大きな支援を受けることができました。4年間で彼は3本の映画を制作し、映画制作の授業で他の生徒に教え、さらには映画づくりのガイドまで書き上げました。

その数年間、ジョージは個人的に非常に辛い喪失体験をいくつも経験しました。いとこや同年代の若者たちが学校を辞め、ギャングに入り、子どもをもつ姿を見て、「もう全部投げ出したい」と彼が私に漏らしたことは一度や二度ではありませんでした。そんな彼を支え続けたのは、「映画監督になりたい」という思いだったのです。

20086月、ジョージは高校を卒業しました。そしてその秋、カリフォルニア大学サンタバーバラ校に進学し、映画制作を学ぶことになりました。高校の卒業式では、彼は映画監督になるという決意を語りました。移民である彼の父親は、ひとり息子の卒業を見守りながら涙を流していました。

「息子さんが映画を学ぶことについて、どう思われますか?」と私は父親に尋ねました。

彼は肩をすくめて言いました。「あいつは自分の情熱を見つけたんだ。私は嬉しいよ。父親として、これ以上望むことがあるだろうか。」

ケイコ・スダ先生の見事な教科を統合するユニットのおかげで、科学が好きではなかったジョージは 7年生の細胞生物学の基準をしっかり習得し、文章力を伸ばし、社会的・対人的スキルを育て、そして彼を高校から大学へと突き動かす生涯の情熱を見つけたのです。

 そして、これはたったひとつの物語にすぎません。まだまだ続きがあります。

   *****

 あなたは、授業を通してどんな物語をつくり出していますか?★★★

 

出典: https://www.edutopia.org/integrated-studies-authentic-education

★逆に言えば、こういう機会が提供されないと、単に暗記だけ(そのほとんどは、忘れ去られる運命?!)の授業で終ってしまう可能性が高いことを意味します。

★★形成的評価は、成績(総括的評価)に使われることなく、生徒の学びと教師の指導を改善するために行われる評価のことです。評価で大切なのは、圧倒的に形成的評価の方で、3つの評価をあえてウェートづけると、診断1、形成8、総括1ぐらいが理想と思います。しかし、現在日本で行われている評価のウェートづけは診断0、形成0、総括10ではないでしょうか? それが、生徒の学びも教師の指導もよくならない原因になっています。

★★★ここで紹介されている授業のアプローチととても似た方法を、紹介者自身2000年ごろにオーストラリアで聞いたことがあります。読み書きに熱心ではないアボリジニー(原住民)の生徒たちが多い学校で、動画の制作をしたというのです。読み書きにはまったく興味がもてない生徒たちも熱心に取り組みました。面白い動画の制作には、上にも書いてある「脚本執筆・監督・制作・編集・出演」の最初のステップのためにたくさんの資料を読んだり、そして脚本を執筆することをしなければならないのです。それ(読み書き)自体を目的に設定したら、取り組まない生徒たちも、自分たちの動画づくりのためなら何の文句も言わずに、嬉々として取り組んだそうです。この目的から手段への転換は、ある意味、コペルニクス的な転換です。あなたも、ぜひ挑戦してみてください! 

 このアボリジニーの動画作成のベースになっている資料は、http://68.77.48.18/RandD/New%20Basics%20Project/NewBasicsrichtasksbklet.pdf です。他にも、「New Basics Queensland」で検索すると関連情報が得られます。

なお、生徒たちが自分の物語をつくり出す授業の参考になる本には、

・『あなたの授業が子どもと世界を変える』

・『子どもの誇りに灯をともす』

・『プロジェクト学習とは』

・『教室から実践するデザイン思考 児童・生徒とはじめる探究と創造のツール』などがあります。

2026年2月15日日曜日

コーチングが学校現場にもたらす変化 ― 教師・校長・生徒への影響の大きさ

以下は、エリーナ・アギラ―著の2013年3月に出た『The Art of Coaching: Effective Strategies for School Transformation』(邦訳タイトルは『教師のためのアート・オブ・コーチング~学校を変革する効果的な方法』福村出版、202512月の20~25ページ)からの抜粋です。この本では、コーチングの枠組みと、さまざまな教育関係者が活用できる数多くのツールが紹介されています。

それは、既存の日本の教員研修(校内も校外のセンター研修など)の多くが満たしていない成人教育などの理論や原則★を満たしていないのに対して、コーチングはそれらを満たしていることが違いを生み出しています。

コーチングは学校に何をもたらすのか? 

研究結果は何を示しているのか?

 教師が仕事に就いた後、より多くの知識、スキル、実践、サポートを必要としていることは、一般的に認識されています。『天才! 成功する人々の法則』の著者であるマルコム・グラッドウェルは、複雑なスキルを習得するには、意図的な練習(継続的な改善を促す練習)を1万時間行う必要があると計算しています。これは、学校で働く人々の約7年分です。ほとんどの教師と校長は、専門的な成長を望んでいます。彼らは、教育の専門職として、生徒の学びにとってより効果的なものとなるよう自分のスキルを磨き、その磨いた新たなスキルを実践することを通して、生徒たちがもっと学ぶ姿を見たいと願っています。

 教員研修がどのようなものであるべきかについては、意見が分かれるところです。伝統的に、教員研修は、たとえば新年度が始まる前の8月に3日間の研修を行い、その後おそらく年間を通して数回のフォローアップ・セッションを行うという形式で展開されてきました。このような教員研修は、ほとんどすべての教師が経験したことがあると思いますが、教師の実践に大きな変化をもたらすことはほとんどなく、生徒たちの学習意欲や学力を高める結果につながることもほとんどありません。教員研修に関する2009年の研究によると、教師が自分のスキルを向上させ、生徒たちの学習を改善するためには、ある分野で50時間近くの教員研修が必要です(参考文献15)。「単発の」教員研修の効果がないことに関する研究が積み重ねられるなか、効果的な教員研修の模索が進められています。

 コーチングは、教員研修の不可欠な要素です。コーチングは、クライアントの意志、スキル、知識、能力を構築することができます。なぜなら、コーチングは、他の教員研修では決して踏み込むことのできなかった、教育者の知性、行動、実践、信念、価値観、感情にまで踏み込むことができるからです。コーチングは、クライアントが大切にされていると感じることによって、新しい知識にアクセスしようという意識をもち、実際に実践できるような、安心した関係をつくり出します。コーチはまた、深い振り返りと学びが行われる条件もつくり出し、教師が実践を変えるリスクを取り、意味のある会話を促し、成長が 認識され周囲から喜ばれる環境を育むことができます。加えて、コーチはクライアントに癒しの場を提供します。たとえ喜びに満ちているはずのコミュニティーが困難な状況に陥っていたとしても、柔軟に対応することによって、そのなかで成長する可能性をもたらすことができます。

 校長は、コーチの雇用を検討するときに、コーチングの影響について次のような質問をよくします。「コーチングがどのように学校を変えることができるかについて、研究結果はどうなっているのですか?」「学校を変えるためのコーチングについて、最も効果的なモデルはありますか?」「コーチングによって生徒の学習意欲や学力が向上するという証拠はあるのですか?」

 コーチングで何ができるかを伝えることは、私たちコーチの責任です。しかし、初年度にテストの点数を50パーセント上げると掲げ、学校で働き始めることはできません。そのため、何を達成できるかを明確にする必要があります。幸いなことに、コーチングが教師の教え方を変え、生徒の成果を向上させるのに必要な条件を整えるのに役立つことを示す研究が増えています。これらは、コーチが自らの活動を方向づけるうえで、貴重な資料です。私たちの仕事は、教師と個別に取り組んで実践を改善することだけではなく、それ以上のものを目指さなければなりません。

 現在までのところ、コーチングに関する最も綿密で包括的な研究は、2004年にアネンバーグ財団によって行われた研究です。これは、コーチングの効果に関する強力な裏づけを提供するいくつかの調査結果を報告しています★★。第一に、報告書は、効果的なコーチングが協働的で省察的な実践(本書の340ページを参照)を促進することを結論づけています。教師が一人で取り組む場合よりも、コーチングを行う場合の方が、新しい知識やスキルをより効果的に、継続的に、そして一貫して自分の授業に取り入れることができます。 コーチングは、教師が自分の学びを振り返り、生徒に対する教師の教え方や教師同士の学び合いに活かす能力を向上させるように支援します。

 アネンバーグ財団の報告書から得られた二つ目の知見は、教師が学校で行っている日常の教育活動に統合する形で教員研修を行うと、学校の文化的変化が効果的に促進されるということです。つまり、効果的なコーチング・プログラムに必要な条件、行動、実践は、学校や教育システムの文化に影響を与える可能性があるということです。その結果、教え方の改善は、学校の文化や条件を向上させるためのより大きな努力に組み込まれることになります。

 また、コーチングはデータを活用して実践に役立てる教師の増加にもつながりました。効果的なコーチングは、データが示唆する生徒や教師、学校教育に関する特定のニーズに対応し、学力差の解消や公平性の推進といった課題に的を絞った改善への努力を生み出します。アネンバーグの報告書は、データに基づくコーチング・プログラムが、個々の意見や時には対立する意見ではなく、証拠によって示された重要な重点分野や課題に焦点を当てることで、学校内で一貫した取り組みを可能にしていたことを発見しました。

 もう一つの重要な発見は、コーチングが学んだことの確実な実践と「相互の責任」(コーチとクライアントがお互いに進捗を確認し合うことで、責任感を共有し、成果を上げること)に貢献するということです。コーチングは、生徒と教師のニーズに対して、常に一貫して献身的に応じることを目的とすると同時に、コーチの提供する学びや支援が学校教育の日常的な活動やプロセスのなかに、自然に組み込まれている方法です。同僚たちがコーチの指導のもとに協力し、教え方と学び方の改善に責任をもつようになると、コーチングを通して得られた新しい学びをさまざまな場面で活用する可能性が高まります。

 最後に、アネンバーグの報告書は、コーチングが学校組織全体にわたる集団的なリーダーシップを支援することについても明らかにしました。コーチングの本質的な特徴は、コーチ、校長、教師の関係を利用して、行動、教え方、教科内容の知識などに変化をもたらすやり取りを生み出すことです。効果的なコーチングは、リーダーシップを各教員に分け与え、教師の教え方と学び方、生徒の学び方に焦点を当て続けます。ここに焦点を当て続けることで、リーダーシップスキルの育成、プロの教師としての学び、生徒の学習意欲の向上や学力を向上させる方法を目標とした教師への支援を促進します。

 学校におけるコーチングの分野が発展するにつれ、コーチングが生徒の学びに与える影響を明らかにすることができる質的・量的データを見つけ出し、収集することが非常に重要になってきます。私たちは、教師や学校のリーダーの実践に見られる変化を観察し、私たちの仕事が生徒の学びの改善につながったという証拠を集める必要があります。これは、刺激的で価値を確認できる取り組みです。私たちが効果的だと感じ、よい仕事をしていると客観的に知ることができるのは、こうしたデータのおかげなのです。そのためには、私たちの仕事の範囲を明確に絞り込み、クライアントがどのように成長したかについてデータを収集し、その結果を明確にする必要があります。

学校や教育委員会における非常に効果的で包括的なコーチング・プログラムは、コーチが体系的にさまざまな証拠を収集することによって、コーチングが教師、管理職、生徒に与える影響を明らかにします。

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 以上のように、学校教育におけるコーチングの存在は日増しに大きくなっています。これが書かれたのは2013年ですし、引用している報告書が書かれたのはさらに10年前の2003~4年のことです。その後も、コーチングの影響力は大きくなり続け、いまでは、「コーチング便り」の記事(https://note.com/coachingletter/n/nbce16f70c231)にあるように、その役割はかなり細分化されています。(「コーチング便り」https://note.com/coachingletter/m/ma24c24afc5bd はコーチングに関心がない方にとっても、教員研修をより効果的にするためのアイディアが詰まっていますので、是非たまに覗いてみてください。)

 

★これらについては、以下の記事ですでに取り上げていますのでチェックしてください。

https://projectbetterschool.blogspot.com/2012/03/plc_18.html

https://projectbetterschool.blogspot.com/2016/07/blog-post_10.html

https://projectbetterschool.blogspot.com/2024/10/blog-post_27.html

https://note.com/coachingletter/n/n01366202289c?magazine_key=ma24c24afc5bd  など

★★ここのアネンバーグ財団の出典は、Annenberg Institute for School Reform. Instructional Coaching: Professional Development Strategies That Improve Instruction. Providence, RI: Brown University, 2004. https://x.gd/xEMWT です。この他にも、アネンバーグ財団は、Neufeld, B., and Roper, D. Coaching: A Strategy for Developing Instructional Capacity Washington, D.C.: The Aspen Institute Program on Education and the Annenberg Institute for School Reform, 2003.https://annenberg.brown.edu/sites/default/files/Coaching%20%281%29.pdf でダウンロード可]を出していました。最近も、https://annenberg.brown.edu/sites/default/files/rppl-building-better-pl.pdf を出しており、コーチングを含めた教員研修の改善に継続的に関心をもち続けています。それに対して、日本にはこういった公益財団がひょっとしたら教育で一番大切な教員研修に興味を示すということは残念ながらまだありません。

アネンバーグの報告書以外にも、『教師のためのアート・オブ・コーチング』の巻末の訳者解説では、たくさんの報告書や教育委員会等による調査や普及のための資料が紹介されていますので参照してください。

出典:https://www.edutopia.org/blog/coaching-impact-teachers-principals-students-elena-aguilar

2026年2月8日日曜日

哲学対話はどこから来たのか フレイレ『被抑圧者の教育学』を読んでみた

教室で哲学対話に取り組むことが増え、あらためてじっくりと学んでみたいと考えていました。近く、哲学対話について早稲田大学の山辺恵理子さんのお話をうかがう機会があり、その事前資料として、哲学対話のルーツを検討する文章を読むことになりました。そこでは、哲学対話の背景として、パウロ・フレイレの思想が参照されています。銀行型教育を批判し、学習者が現実の中から課題を発見し、生成テーマを手がかりに対話を通して世界を捉え直していくという、問題提起型の学びを構想していた点において、フレイレの教育論が哲学対話と深く重なっているからです。そこで予読として手に取ったのが、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』でした。読み進めるうちに、現在の教育と驚くほど深くつながっていることに気づかされました。

 

『被抑圧者の教育学』は、半世紀前に書かれた文章ですが、その読後感は古典というよりも、むしろ「今の教育をそのまま映し出している」と言ったほうが近いように感じました。本書が描き出した教育の構造が、形を変えながら、今も学校の中に存在しているからなのだと思います。フレイレが問題にするのは、教え込みや知識詰め込み型の教育が生み出す関係の歪みのこと。授業が「教える側の正しさ」を効率よく移し替える作業になったとき、子どもは学ぶ主体ではなく、内容を受け取る器として扱われるようになってしまいます。学びは次第に、理解の喜びや世界への驚きから離れてしまい、「できたか、できないか」「点が取れたか、取れなかったか」といった成果主義の尺度に回収されていきます。すると、成果に直結しないものやすぐに役立たないもの、評価の枠に入りにくいものは学ぶ意味を失っていきます。学びが「関連のあること」だけに限定されてしまうと、子どもは自分自身の興味や問いを育てる余白を奪われ、やがて興味そのものを失っていってしまうのです。

 

この構造を、フレイレは「銀行型教育」と呼びました。教師は知識を預け入れる側、子どもはそれを受け取って貯める側となります。知識は生きた経験や対話から切り離され、正解として保存されていきます。銀行型教育の問題は、知識の量が増えることではありません。知識を扱う人間関係が固定されることにあります。教師は権威として前に立ち、子どもはそれに追いつこうとします。子どもは「まだ足りない者」「教えてもらうしかない者」として自分を理解してしまい、この関係が繰り返されると、教室は安心して考える場ではなく、評価される場、間違えてはいけない場へと変わっていきます。その結果、子どもは沈黙していってしまいます。この沈黙は、単に発言が少ないということではありません。自分の言葉に価値があると感じられず、考えが途中のまま表すことを恐れ、不思議に思う問いを言葉にする権利を、自分から引き下げてしまう状態のことです。沈黙が広がる教室では、自己肯定感は弱まり、批判的思考も育ちにくくなります。ここでいう批判とは、誰かを否定することではありません。いまあるものを問い直し、別の可能性を探る力のことです。問いを口にできない場では、その力は育ちようがありませんね。フレイレは、教育が抑圧的な社会を再生産してしまう危険性を強く指摘します。教室の沈黙は、社会の沈黙とつながっているからです。選挙前にこの本に出会えて、本当によかったと思うのです。

 

これに対してフレイレが提示するのが、民主的な教育であり、その中心に置かれるのが対話です。対話とは、互いの経験や言葉を尊重しながら、世界を共同で読み直していく営みのことです。教師がすべてを知り、子どもが受け取るという関係をほどき、教師も学び手であり、子どももまた教え手になり得る関係へと転換していきます。対話の場では、知識は預金のように蓄えられるものではなく、生活や現実と結びつきながら再構成されていきます。だからこそ、対話は子どもが自己肯定感と批判意識を取り戻す契機になります。自分の経験が語られ、受け止められ、別の視点と結びついて言葉になっていくとき、子どもは「自分には語る資格がある」「自分の言葉で世界に関われる、変えられるかも!」と感じ始めます。沈黙が破られるのは、勇気が生まれたからではなく、対話が成立する条件が整うからなのです。

 

フレイレのもつ思想の魅力は、対話を単なる方法としてではなく、力として捉えている点にあります。「対話的言語」は、社会を変革する力をもつと彼は述べます。言葉は世界を説明するだけでなく、世界の見え方そのものを変えていきます。見え方が変われば、何が問題で、何が可能で、誰と手を結べるのかが変わっていくからです。だから対話は、教育技法の一つではなく、民主主義の基盤なのです。現代の教室は、すでに社会問題と切り離せない場所になっています。経済的格差、分断や差別、環境問題、戦争と平和など、子どもたちは日々、多くの情報と様々な感情にさらされています。その意味で、学校が社会問題を積極的に話し合おうとしていること自体は、時代の要請だと言えます。ただし、ここで問われるのは「何を話すか」だけではなく、「どのように話し合うか」です。話し合いが正しい結論へ導くための誘導になってしまえば、それは別の銀行型教育になります。子どもが自分の言葉で迷い、葛藤し、他者の言葉に揺さぶられながら現実を読み直す経験が、失われてしまうからです。

 

フレイレの対話は、教育の中心を「結論」から「過程」へと戻します。その過程の中で、子どもは自分の言葉を持ち、他者の言葉に出会い、世界の複雑さに向き合う力を育てていきます。銀行型が沈黙を生むとすれば、対話は声を生みます。声が生まれる教室は、ただ賑やかな場ではありません。互いの経験を持ち寄り、問いを共有し、理解の枠組みそのものを編み直していく場となります。そこでは、教師の役割も変わります。権威として子どもを超えていく存在ではなく、問いを磨き、関係を整え、学びの共同体を支える存在になります。

 

子どもを動かすのは、評価や管理ではありません。「自分の言葉が届く」という実感です。

半世紀前に書かれたこの文章が、今も読み継がれているのは、フレイレの教育論が、単なる学校教育の方法論ではなく、人間の尊厳や人権の回復と深く結びついているからだと思います。その一方で、本書が独裁主義国家において発禁本とされ、焚書の対象にもなってきたという事実は、フレイレの思想が、教育を通して人間を再び主体として立ち上がらせようとする、きわめて政治的な力をもっていたことを物語ってくれています。フレイレが求めたのは、知識を効率よく教える教育ではありません。人が自らの言葉を取り戻し、対話を通して世界と関わり直していく、民主的な教育のこと。子どもに言葉を返すこと、沈黙を破り、対話を回復することは、学習方法の改善にとどまらず、人間が人間として生き直すための条件でもあります。教室で言葉が生き始めるとき、社会を変える力は、遠い理想として掲げられるのではなく、日々の学びの中で静かに、しかし確かに育ち始めるのだと思います。さて、選挙にいってきます。



2026年2月1日日曜日

教師と学習者の信頼関係の構築 原則6 教師の情熱を示す

子どもたちの学びのエンゲージメントを高めるためには、教師と学習者の信頼関係の構築が重要。そのための原則は何か。外国語学習者の心理やモチベーションの研究を長年続けてきた、二人の研究者の著書から考えてきました。★1 六つ目の原則は「教師の情熱を示す」です。

ChatGPTの登場以降、生成AIが、性能や機能も日々アップデートされていて、勢いは留まる気配はありません。私自身も大いに活用しています。また、私自身どちらかといえばデジタル派の人間なので、このような変革は、ワクワクするところがありますし、もう後戻りもできないと思っています。どう共存していくかが、次なるテーマかもしれません。

ただし、デジタルツールを使えば使うほど、やはり人間と人間のつながりの必要性を実感している人は多いのではないでしょうか。中でも、情熱(パッション)。教師の情熱は、学習者に伝染すると言われます。

学習者と教師の心理状態が表裏一体であることは、実感とも一致しますし、実際、これまでの多くの研究でも指摘されてきたようです。学習者のモチベーションを大きく動かすのは、教師の情熱とそれに基づいた学習者への関わりの深さであるということです。

これは、教職という仕事の一丁目一番地。改めて、心に刻んでおきたい。

ここで考えておきたいのは、教師のウエルビーイングということ。ウエルビーイングとは、身体的、精神的、社会的に良好で満たされた状態。すなわち、持続的に幸福感に満たされているかという問題です。

教師自身が、幸せや生きる喜びに満たされていなければ、情熱を維持し続けることは難しい。教師の多忙、バーンアウト。精神疾患による求職者の数は高い水準に留まっています。働き方改革の必要性は叫ばれ続けていますが、なかなか根本的な解決策は見出せず、教員志願者の減少を食い止めることはできていません。★2

マーサーとドルニュイは、教師が幸福を求めることは、「甘えでもわがままでもない。それは回復力(レジリアンス)と素晴らしい授業実践のための重要な鍵にほかならない。」という言葉でこのセクションを結んでいます(p.89)。

教師の情熱が枯渇しないためにも、教師が持続的に幸福感に満たされているためには、どうすればいいのか、考え続ける必要があると思います。



★1 サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.(原著 Mercer, Sarah and Dörnyei, Zoltán (2020) Engaging Language Learners in Contemporary Classrooms,Cambridge Professional Learning.),p.78.


「教師と学習者の信頼関係を構築するための6つの原則」

  • 原則1 近づきやすさ
  • 原則2 共感的態度で応じる
  • 原則3 学習者の個性を尊重する
  • 原則4 すべての学習者を信じる
  • 原則5 学習者の自律(立)性を支援する
  • 原則6 教師の情熱を示す

注)原則5の「自律性」は”autonomous”の訳語ですが、「自立性」を採用する方が本来の意味に近いと思われます。


★2 【情報ファイル】教員志望者減、採用倍率は過去最低 https://ippjapan.org/en_ichi/archives/307


2026年1月25日日曜日

『ほんものの学びに夢中になる 関わりあい高めあう授業づくり』を読んで

広島の公立高校で国語教師をしている綱川和明さんが『ほんものの学びに夢中になる』の紹介文を書いてくださいました。

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本書は、児童生徒が「夢中」に学ぶ授業を作るためのヒントを提供してくれる書籍です。教育実践者ならば誰もが一度は、「夢中」に学ぶ児童生徒の姿を自分の授業の中で実現したいと考えたことがあるはずです。私もそうした目標を追求してきた(いる)一人です。

しかし、「夢中」を実現するために、「興味を引く教材や面白い学習活動」「授業者の話術や緩急のある授業展開」「成果・成長が明確な学習内容」を端的に追い求めてしまうことも多々ありました。「夢中」が何か1つのコツやメソッドの導入で実現すればいいという願望の裏返しかもしれません。そうした願望を託した授業は、以前の授業よりは何かが進歩してはいるものの、心のどこかにモヤっとしたものを抱えて終わることがほとんどでした。そうして、「夢中」は簡単で表面的な工夫で生起することではないのだと気付くのです。このような認識は間違っていないでしょう。複数の授業の要素に気を配り、一つ一つの工夫をつなげて相互に関連させることで、はじめて質の高い「夢中」が実現するのだと思います。

本書は「夢中」になる授業づくりについての、そうした認識を裏付ける情報の集合体といえるでしょう。実践者がこれまでに感覚的に把握していたことを言葉によって裏付けられる経験を提供してくれる本です。もちろん、これまで気付かなかった新しい要素についても非常に多くのことを教えてくれます。児童生徒を学びに「夢中」にするために本書を貫く方法論は、学びを取り巻く様々な事柄を有機的に関連付けていくことだといえます。詳しくは実際に本書を読んでみることで知っていただきたいと思います。

 

下記は、実際に読んだ私からのいくつかの提案です。この本を有効に使うためのアイデアだと思ってください。

①「訳者あとがき」から読んでみる。

→この本の全体像と各チャプターの要点が把握しやすいです。全体像については原著者よりも訳者の方々の説明の方が分かりやすいと思います。現在の日本の教育への視点を含んでいることも、読者にとっては参考になります。

②誰かと一緒に読んでみる。

→各チャプターの内容は、実践に即応できる具体的なものが多いです。しかし、この本の最も有効な使い道は、他の実践者といくつかのチャプターごとに読書会形式で読み進めていくことです。本書の内容を実践に導入することよりも、それを話題として実践者同士が考えを話し合うことの方が得られるものは多くあると思います。何より、そうした教員研修のような展開を原著者も望んでいる節が見られます。

③脚注や参考文献を楽しむ。

→脚注には下訳を読んだ協力者(実践現場に近い国語教育関係者)のコメントがあり、他の実践者の考えや反応を知ることができて面白いです。訳者の方々の本で時折採用されている興味深い試みであり、特徴だと思います。上記の②「誰かと一緒に」とも関連しますが、他の実践者の「息遣い」を感じながら、読み進めることはとても有意義だと思います。

 

最後に、下記は個人的感想です。誰かへのメッセージというより、自分の理解を整理するメモのつもりですので、読み流してください。どうか、本書が多くの読者に手に取ってもらえる書籍となり、皆さんに何かをもたらす価値ある書となることを心より願っています。

④本書は国語教育関係者の読者が多いと思われるが、国語教育という枠組みに留まらない、教育一般に有益な情報を与える書籍である。