2026年10月11日日曜日

教室には、教師の言うことを聞かない子どもが必要ですか? 従順さと民主的な学びの関係

授業中、「どうしてこの方法で解かなければいけないの? もうできるんだから、自由にやってもいいじゃん」と尋ねる子がいます。修学旅行や学校行事が詰まっているときに、「ハロウィンパーティーをやりたい!」と訴える子もいます。教師がその意図や価値を説明しても、簡単には納得してくれません。忙しいときほど、私たちは「まずは言われた通りにやってよ」と答えたくなります。教室を運営する立場からすれば、もっともな反応でしょう。しかし、その子が発した問いや意見を、私たちはどのように受け取っているのでしょうか。

 

学校では、時間を守り、指示を聞き、友だちと協力する子が「よい子」と評価されやすいもの。集団生活を送る以上、それらは必要なことです。しかし、教師の意図を素早く理解して動けることと、自分の頭で考えて判断できることは同じではありません。自分で考え、判断できる自律的な人を育てたいと願いながら、前者ばかりに価値を認めてはいないでしょうか。

 

「子どもの権利条約」第12条は、子どもが自分に関わる事柄について自由に意見を表明する権利を定め、「児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする」としています★。意見を聞けば、必ず採用しなければならないという意味ではありません。大切なのは、その意見を一人の人間の考えとして受け止め、判断の材料にすることです。

 

★日本ユニセフ協会 (https://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_rig_all.html)

 

ここでいう「教師の言うことを聞かない子」とは、教師の説明を鵜呑みにせず、「なぜ?」と問い、納得できなければ異議を唱えられる子のことです。もちろん、教師に従う子が自分で考えていないということではありません。大切なのは、子どもの判断が教師の期待と一致しなかったとき、その声にどこまで耳を傾けられるかということです。

 

こうした子どもを育てることは、決して簡単ではありません。むしろ、教師の権力と子どもの主体性をどのように両立させるのかは、民主的な教室をつくろうとする教師が、常に向き合わなければならない難しさだと思います。

 

子どもの主張を何でも受け入れてしまえば、声の大きい子の意見ばかりが通り、集団としての学びが成立しなくなることもあります。一方で、教師が力で押し切れば、子どもは言うことを聞くようになるかもしれませんが、それでは自分で考え、判断し、行動する力を育てることは難しいでしょう。

 

ただし、教師が権限を持つこと自体が問題なのではありません。その力を、子どもを従わせるために使うのか、それとも子どもが自分で考え、他者と共に生きていくことを支えるために使うのか。その違いが問われているのだと思います。

 

算数の授業で「もう分かっているから、みんなと同じことをしたくない」という子がたまにいます。その子の思いは大切にしたいものです。一方で、友だちと考えを伝え合うことによって生まれる学びもあります。教師の考えを押しつけるのでも、その子の希望をそのまま受け入れるのでもなく、互いが大切にしていることを伝え合いながら、学び方を考えていく。価値観をすり合わせていくには、時間がかかります。

 

そして、自分の考えを大切にすることは、自分の主張を押し通すことではありません。ハロウィンパーティーをやりたい子がいても、別のことをしたい子や、行事が続いて疲れている子もいるでしょう。自分の願いが尊重されるのと同じように、他者の願いも尊重されなければなりません。教師の言葉を鵜呑みにしないことと同じくらい、自分の考えも絶対ではないと知ることが、民主的な学びには欠かせないのです。

 

もちろん、こうした話し合いが、絵に描いたように美しく進むわけではありません。互いに不満を抱き、意見がぶつかり合い、何度話しても納得できないこともあります。それでも、諦めずに対話を重ね、相手が何を大切にしているのかを理解しようとする。その過程で、少しずつ互いの考えが変わったり、折り合いのつくところが見つかったりします。

 

一方、最後まで納得できないこともあるでしょう。民主的な話し合いとは、必ずしも全員が同じ考えにたどり着くことではありません。異なる意見を持ち続けながらも、相手を排除せず、共に生活していくことにも大切な意味があるはずです。

 

私は、こうした葛藤を抱えながら、時間をかけて対話を続ける過程そのものに、民主的な教育の価値があると考えています。

 

教育哲学者のガート・ビースタは、教育には教師の意図通りにならないという不確かさが伴うことを指摘しています。ビースタは、「教育は常に、たとえ善意に基づいていても、子どもには力の行使として現れます」(私訳)と述べています。教師がどれほど善意をもって働きかけても、そこには力の関係が存在します。そして、子どもはその働きかけを、教師が期待した通りに受け取るとは限りません。

 

ビースタが重視する「主体化(subjectification)」とは、単に子どもが自分の意見を主張できるようになることではなく、自分とは異なる他者や、思い通りにならない現実と出会い、その中で自分の自由をどのように使うのかという問題です★★。教師の意図に従わないことも、反対に自分の主張を押し通すことも、それだけで主体的だとは言えません。自分の考えを持ちながら、他者の存在によって自分の考えが問い直されることにも、教育の重要な意味があるのです。

 

★★PLC便り(2025年12月14日)「教育は予定調和ではない! 主体が立ち上がるとき、教室は揺れる 〜高学年を担任する『やりにくさ』から考える教育の意味〜」

https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/12/blog-post.html

 

 

だからこそ、民主的な教室づくりには対話が欠かせないのです。それは、子どもの意見を何でも認めることではありません。教師も自分の考えを伝え、必要なときには譲れない線を示します。同時に、子どもの主張によって、教師自身の考えが変わることもあるはずです。また、声を上げる子だけでなく、言葉にできない子や、沈黙している子の思いにも目を向けなければなりません。

 

そして、この問題は職員室にも当てはまってしまいます。「例年通りだから」という言葉で、新しい提案や疑問を退けてはいないでしょうか。もちろん、前例を大切にすることにも意味があります。しかし、それが異なる意見に耳を傾けない理由になってしまっては、対話は生まれません。子どもたちに自分の考えを伝え、他者と考え合うことを求めるのであれば、まず私たち教師自身が、異なる意見を安心して伝え合える職員室をつくる必要があるのです。

 

民主的な教室は、教師が判断を放棄する教室でも、全員がいつも納得している教室でもありません。異なる考えや不満を力で押さえ込まず、葛藤を抱えながらも、互いに理解しようと対話を重ねる教室です。ときには最後まで納得できないこともあるでしょう。それでも、異なる考えを持つ相手と共に生きていくこと。その難しさを子どもたちと一緒に引き受けていくことに、民主的な教育の価値があるはずです。

 

私たちが育てたいのは、いつでも教師に逆らう子ではありません。教師の言葉を鵜呑みにせず、自分の頭で考え、同時に自分の考えも絶対ではないと知る子どもです。そして、他者との違いに向き合いながら、共に生きる道を探そうとする子どもです。そのような子どもが安心して存在できる学校でありたいと思います。

2026年10月4日日曜日

学校を家庭と地域による協働の場に

小学校のコミュニティースクールの運営協議会に参加しました。熱心な保護者、献身的に学校をサポートしている地域の皆さん、働き方改革やAIの導入など、大きな変革期の真っ只中にある教職員のみなさん。それぞれの立場で、学校を良くしたいと尽力してくれている姿に心動かされました。

その会議では、学校ボランティアの登録の是非が主要な議題でした。現状どうなっているか質問したところ、学校にお手伝いが必要となった時に、地域のリーダー的な人や民生委員さんなどに個別のお願いして声をかけていたそうです。常設の地域学校協働本部はあるようなのですが、結局、この組織も関わっている一部の熱心な人たちによって支えられているに過ぎないとのことでした。PTAも同様なようで、いつも役員をしてくれるごく一部の人が動いているというのが実態のようです。

そこで、より多くの人に関わってもらうために、学校ボランティアの登録制度をつくろうということになったようです。登録用紙の記載内容や声がけの方法などについて、様々な意見が出されました。

年配の方のためには、やはり紙ベースでの募集が欠かせない。保護者には一斉送信が可能なツールを使うことができそう。自ら応募してきた人は、本当に信頼に足る人なのか、どうやって確認するのか?という声も上がりました。知り合いの人を通じた、口コミが安心なのではないか。地域の年配の方の中には、学校というところはまだまだ敷居が高いと感じている人も多いとの意見もありました。その人の意見では、学校が閉ざしているというよりも、自分自身が子どもたちの成長や安全に関わって大丈夫なのか?という良心的な姿勢によるものでした。みなさん、それぞれの立場で、誠実に学校と向き合おうとしている姿が印象的でした。

学校を、地域と保護者による「協働の場」★1 に変えるていくために、何ができるのでしょうか。特効薬のようなものはなさそうですが、この会議での議論された中から、いくつか拾って考えてみたいと思います。


(1)学校からの情報を出すこと。学校のすばらしい実践、子どもたちの取り組み、驚くようなストーリー。人々を引きつけることのできる情報を、計画的に、途切れることなく出していくことが、まずは大切だと思います。その際、やはりデジタルとアナログの両方で出していくことが、まだまだ必要だと感じました。SNSなどで、間断なく情報を提供しつつ、紙ベース、口コミベースでも出していく。そのためには、広報的な役割を担う人を専任で置く必要があるかもしれません。PTAの広報部といえば、PTA便りを年に数回発行するのが役割の場合が多いかと思いますが、根本的に見直す必要があるかもしれません。学校の情報を人々に伝えるためにツールやチャンネルを複数用意して、人とのつながりをつくっていきたい。

(2)学校に関わってくれた人たちの声を拾い、それを伝えていくこと。民生委員さんの話によると、子どもたちのために、何かをしたいと考えている人はいるけれど、自信が持てなかったり、不安に感じて、飛び込めないと感じている人が、結構いるらしい。そのような人の背中を押して、学校に向かわせるには、やはり、実際に関わったことのある人の声が決め手になることが多そうです。子どもたちの成長に貢献するよろこび、自分の身につけたものが次の世代に若者に伝わっていくよろこび。それらをもっと多くの人に感じてもらいたい。関わってきた人たちのよろこびを伝えていく必要がある。

(3)保護者を巻き込む手立て。これが最重要な課題だと思います。親の意識改革を促す手立てと言っても良いかもしれません。家庭が、子どもたちの学習エンゲージメントの貴重なリソースであるというのは、様々な研究に裏付けられた原則だと言えます。学習者の家庭生活には、教室でのエンゲージメントに影響を与える実に様々な側面があります。★2 親が家で読書を楽しんでいたら、子どもたちも本を読むのが楽しいと思うようになるだろうというのは、直感的にも納得できます。これはあくまで経験則ですが、きちんと、理由を説明して、情熱をもって説得するば、立ち上がってくれる親は、予想以上にいます。あきらめず、伝え続けていくことが大切だと思います。その意味では、学校リーダーそして保護者リーダー(PTA役員)の人たちの、重要な役割は、仲間を説得し、巻き込むだと思います。そこにまず注力してほしい。


この日の連携協議会での校長の最後の挨拶が印象に残りました。「地域や家庭の積極的な関与なくしては、これからの学校は成り立っていかない」。率直かつ切実な叫びなのだと思いました。



★1 ジョー・サンフォリポ&トニー・シナシス(2021) 『学校のリーダーシップをハックするー変えるのはあなた』新評論, p. 93-94.

★2 サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク, pp.33-35.

2026年9月27日日曜日

あなた(の周辺の人たち)は、X理論派? それともY理論派?(=総括評価派? 形成評価派?)

20年前に出た『効果10倍の教える技術』のなかでX理論とY理論が紹介されていました(下に紹介する表とは違いますが、56ページにマグレガーのX理論とY理論だけでなく、ロジャーズ伝達型の教育と体験重視の学習法との対比で紹介されています!)。

表1.2: 動機づけを高める指導・支援の2つの考え方

従来型(X理論)

支援・変革型(Y理論)

フィードバック/アドバイス

振り返り(リフレクション)

管理的な環境

成長を促す環境

階層的な構造(縦社会)

学習者のコミュニティー(センゲ、1990)

報酬・買収・罰

成長の承認

外発的動機付け

内発的動機付け

上司によるコントロール

内的なコントロール(自分自身が判断し、自分で方向づける)

行動の起点:他者(指示待ち)

行動の起点:自分(主体的な判断)

ボス型マネージャー(グラッサー、1992)

リード型マネージャー(グラッサー、1992)

労働=ノルマ・課せられたタスク(デミング、2000)

労働=喜び・やりがい(デミング、2000)

(他者からの)承認・許可

指導力(キャパシティー)の向上

実効性の根拠を他者に依存

自己効力感(自立した自信)

※フィードバックとは、「自分が相手の実践(仕事)をどう評価したか」を伝えることであり、本質的に「評価的(ジャッジメント)」なアプローチ。

 

X理論の立場をとる者はフィードバック(評価や指示)を用い、Y理論の立場をとる者は振り返り(対話と自立的な探究)を用います。両者の違いは、この点に典型的に表れています。同僚との関係や組織の中での関係が、評価や指導・指示が中心(X理論)か、それとも、振り返りの対話や(それに基づいた)自立的な探究が中心か(Y理論)というふうに。振り返りの対話や自立的な探究は、成長、学び、喜び・やりがい、能力や効力感の向上をもたらしますが、評価や指導・指示では、それらはつくり出せませんから、あるのはよくて停滞/維持で、悪ければ後退・悪化です。

以下は、生成AIとのやりとりです。

▼日本の研修は、残念ながらX理論をベースにしている。授業も。ということは教育全体が!

◆鋭いご指摘です。ダグラス・マグレガーのX理論・Y理論を「Motivational Supervision Paradigm(動機づけに基づく指導・校務監修のパラダイム)」に適用したこの表を見ると、日本の教育現場や研修がいかにX理論的(伝統的・統制型)な構造に依存しているかが浮き彫りになります。

この対比表の要素に照らすと、日本の学校現場や教員研修、ひいては教室での授業における構造的な問題点が明確に見えてきます。

X理論(伝統的・統制型)が引き起こしている構造

  • 外発的動機づけと他者評価への依存
  • 階層的構造と管理意識

 

この「X理論とY理論」と結構似たところがある(というか、コインの裏表の関係にあるんじゃないかと思える)「総括的評価と形成的評価」をうまく表している表もありますので紹介します。

表4.1 形成評価と総括評価の特徴

形成的評価(Formative)

総括的評価(Summative)

コーチ(伴走者)

裁定者(ジャッジ・評価者)

支援者・理解者(アドボケイト)

中立・第三者(ニュートラル)

継続的(日常的な営み)

単発的・一回性(イベント・行事)

流動的・柔軟(流れている)

固定化・静的(固定した)

成長を生み出す

現状の提示・格付け

学び(探究)

契約上の位置づけ(雇用・査定)

内省的(reflective)

評価的(evaluative)

あなたが関わるなら、表のどちら側により魅力を感じますか?

総括的評価に魅力を感じる人って、本当にいるんでしょうか?

しかし、現実的には、子どもたち対象に右側ばかりをやっているのが多くの日本の教師?

それが、ひいては成長マインドセットではなく、固定マインドセットを学校や社会の中に渦巻く要因になっています。下の表は、アメリカの数値ですが、

日本の小1、小2、小3の数値はどのくらいだと思いますか? 

小6、中1、中3、高2、高3、大2、大4のパーセンテージは?

そして、教師平均のパーセンテージはどのくらいでしょうか?

子どもたちだけで、わずか3~4年で成長マインドセットの割合が半分になりますか?

子どもたちの半分弱がわずか4年間で固定マインドセットにしてしまう要因にはどんなものがあるでしょうか?

上の表4.2の戻ると、あなたにとって一番気になった項目はどれですか?

私にとっては、「現状の提示・格付け」です。それが、「現状の維持や格差の拡大」につながっているとさえ思いました。それに対して、左側の形成評価には「成長、学び、流動的・柔軟、継続的」という言葉がありますから、救われるというか、ありがたいです。

一番下のreflectiveの日本語は「内省的」でピンときますか?

再び、生成AIとのやり取りです。

▼この最後の列の違いは何ですか?

◆結論からいきます。 内省的(reflective)と評価的(evaluative)の違いは、「目的」と「視線の向き」がまったく異なることです。日本の学校現場ではこの二つが混同されがちですが、本来は別物です。

内省的(reflective)とは、教え方と学びの過程を振り返り、次の改善につながる気づきを得るための働きです。観察・対話・問いかけ・課題や作品の検討などを通して、学びの証拠を意図的に集めるが、その証拠は「評価するため」ではなく、「改善するため」に使われます。視線は未来に向き、目的は成長です。

評価的(evaluative)とは、学びの到達度や質を判定するための働きです。証拠を集める点は同じでも、目的は「判定」であり、視線は現在の学習の位置づけに向きます。記述的記録・集計表・自己評価・課題・発表・実演などは、学びの質を判断するための方法として使われます。

Reflectiveとevaluativeの比較1

比較項目

内省的(reflective)

評価的(evaluative)

主な問い

「私は何を経験し、そこから何を学ぶか?」

「基準に対して、どのくらい達成できたか?」

基準のあり方

個人の内面や実践の文脈から生まれる

外的な基準、ルーブリック、目標など

主眼点

プロセス、気づき、自己の変容

アウトカム、成果、妥当性、質のエビデンス

性質

主観的・探索的

客観的・検証的

つまり、同じ「証拠」を扱っていても、内省的は改善のために使い、評価的は判定のために使うという違いです。日本の「見取り」は本来reflectiveであるべきなのに、しばしばevaluativeに変質してしまうため、あなたが感じている違和感はまさにそこにあります。

▼でも、そもそも「内省的」という訳でいいのでしょうか? どういう意味やらイメージがつきにくいです!

◆教育の文脈では、「内省的」よりも、「振り返り的/探究的/意味を考える/学びを探る」の方が実態に近いと思います。さらに、先ほどのReflective ↔ Evaluativeの対比で考えると、本質は内面を見るかどうかではありません。そうではなく、

Reflectiveとevaluativeの比較2

Reflective

Evaluative

理解しようとする

判定しようとする

問いを立てる

点数をつける

学ぶために見る

良し悪しを決める

好奇心

評価基準

という違いです。ですから、「内省的」よりも「探究的」あるいは「理解しようとする姿勢」の方が、この対比の本質を表しているように思います。

2026年9月20日日曜日

総括評価について考える ~ 災害支援で大切なDWATのアプローチの第2弾

9月8日号に「災害支援で大切なDWATのアプローチ」では診断評価と形成評価が鍵を握っていることについて書きました。そこでは、総括評価については一切触れませんでした。2学期制の学校や地域が増えているので、いまが丁度1学期の成績をつけている時期だと思います。自分たちがしていることの振り返りと改善に向けて考えるいいタイミングではないでしょうか?

 その際、避難所(ないし非難した地域)という「同じ場所にいても、一人ひとりの健康状態、生活歴、家族関係、必要としている支援は違う。その違いを把握し、その人にとって必要な支援を提供することが大切。避難所から次の暮らしにつないでいく大事な役割を担っている」のがDWAT(Disaster Welfare Assistance Team)です。そして、これらのほとんどは医師と看護婦で構成された命を守るための医療を提供することが目的のDMAT(Disaster Medical Assistance Team)にはできないことでもあります。

教室の中で行われている授業を考えたとき、教師の役割はDMATに近いのでしょうか? それとも、DWATに近いでしょうか?

是非ご自分で考えてみるか、知人に投げかけてみるか、生成AIの回答を求めるか(それとも、3つ全部を)してみてください。

教育とは何をすることで、教師の役割とは何なのかを深く考えることができますから、ぜひ!

 

 また、9月8日の記事を書いてから、災害支援では総括評価(学校での授業の場合は、成績)は何に相当するのか? その役割(というか位置づけ)は診断評価や形成評価よりも重要度が高いのか、それとも低い(あまり意味がない)のか考えました。

 災害の場合の総括評価(成績)として思いつくのは、直接死者数、災害関連死者数、そして重症患者の救命率でした。生成AIに「防ぎ得た災害死(Preventable Disaster Death)の数 」というのもあることを教えてもらいました。それが信ぴょう性のある数字として出てくるのかは大きな?マークが浮かびましたが。

 また、これらは、最終成果(下の④)であって、他にも①インプット、②プロセス、③アウトプットなどの指標もあることがわかりました。これらはすべて、DMATにまつわる評価指数です。

① Input(投入)

  • DMAT何隊派遣
  • 医師何名
  • 看護師何名
  • 車両何台

② Process(活動)

  • 何時間で到着
  • 何病院を支援
  • 何人搬送
  • 調整会議何回

③ Output(直接成果)

  • 搬送患者数
  • 支援病院数
  • 診療患者数

④ Outcome(最終成果)

  • 災害関連死減少
  • 防ぎ得た災害死減少
  • 医療崩壊回避

これらは、教育でいえば、通知表、定期テスト、入試結果、単元テスト、評定などに相当するものです。

 DWATに関連する指標を考えてみると、

  • 避難者が無事に仮設住宅や地域生活へ移行できたか
  • 災害関連死は防げたか
  • 要介護度の悪化は防げたか
  • 孤立した人を減らせたか
  • 被災者が自力で生活を再建できたか

などであり、DWATがしていることを見ると

  • アセスメント
  • ニーズ把握
  • 見守り
  • 環境改善
  • 支援への接続

などであって、彼らは最終結果を測るために活動しているわけではありません。

 つまり、DWATの努力とエネルギーの大部分は、「評価すること」ではなく「状況を改善すること」に向けられています。

 結果は大切ですが、結果そのものは人を救いません。人を救うのは、診断と支援です。

 

 教育も同じ構造をもっているのではないでしょうか? テストや成績は、学習を改善する直接の力をほとんどもちません(それらが行われたり、結果が出たときは、すでに学習は過去のものになっていますから!)。学習を改善するのは、

  • 子どもが今どこにいるのかを把握すること(診断評価)
  • 学習中に軌道修正すること(形成的評価)
  • 教師が個々の子どもにとって必要な支援を行うこと

です。つまり、学習改善への寄与について見ると、

診断評価 → 非常に大きい

形成評価 → 非常に大きい

総括評価 → 小さい(ほぼ皆無★)

となります。

 DWATとの比較で言えば、日本の学校はしばしば、総括評価を主役にしすぎていると言えます。DWATにたとえるなら、避難者を支援する時間よりも、避難者を点数化する時間の方が長い状態です。本来なら、DWATが行うアセスメントや継続的な見守りに相当する診断評価・形成評価こそが活動の中心で、総括評価は最後に位置づく補助的なものです。仕事そのものは、アセスメントと支援です。教育も、本来は同じではないでしょうか。

 いくら考えても、学びそのものに寄与しにくい「総括評価や成績つけ」に心血を注ぐのは愚かなことだと強く感じると同時に、これまでにそこへ費やしていた時間とエネルギーを、子どもたちの学びを促進する「診断評価」や「形成評価」へ大胆に振り向けられないかと、つくづく思う次第です。(教育の世界にどっぷり浸っていては見えないものが、今回、災害支援へのDMATとDWATのアプローチについて知ったことで、とても鮮明に見えるようになりました!)

 なお、DMATおよびDWATと教師の役割との関係について興味のある方は、pro.workshop@gmail.comへ連絡ください。喜んで共有させていただきます。

 

★ひょっとしたら、それがあることのプラス面よりも、弊害の方がはるかに大きいかもしれません。

2026年9月13日日曜日

「すぐにわからなくてもいい」という学びがあっていい

 この夏、独立研究者の森田真生さんの講演を聞く機会がありました。テーマは「算数するって何?」でしたが、話は算数にとどまらず、子どもが学ぶとはどういうことか、教師はその学びにどう関わるのかというところまで広がっていきました。そこでの学びは私たち教師にとってとても意味のあるものだと思いますので、ここでいくつか共有します。

 

一つ目は、「学びには遅れがある」という話。

 

森田さんは、自身の子育ての経験を紹介してくれました。森田さんのお父さんは仕事が忙しく、子どもの頃には、一緒に遊んでもらった記憶もあまりなかったそうです。ところが、自分に子どもが生まれ、初めてその子を抱いて子守唄を歌ったとき、ふいに、かつて父親が自分を抱きながら歌ってくれた声がよみがえってきたと言います。子どもの頃にはその意味を十分に受け取れていなかったものが、自分が父親になった約30年後に、初めて「届いた」のです。

 

森田さんは、教師が子どもに投げかける言葉も同じではないかと話します。一生懸命伝えたからといって、その場ですぐに届くとは限りません。今日の授業で話したことが、今日理解されるとは限らないし、こちらが大切だと思って伝えた言葉が、そのときにはほとんど響かないこともあります。それでも、何年も経ってから「あの先生が言っていたのは、こういうことだったのか」と気づくことがある。逆に、いつ届くかを教師がコントロールすることはできません。だからこそ、教師にできるのは「今すぐわからせる」ことだけではなく、いつか届くかもしれない言葉を、心を込めて投げかけ続けることなのだと思います。

 

「高い山に登るためには、谷を歩く時間が必要だ」。算数が面白くない、わからない、少し離れたい。そんな時間も学びの一部なのだと森田さんは話します。いつも前よりできること、成績が上がることだけを求めると、子どもは「登り続けなければならない」状態になります。本当に遠くへ行くためには、一度下ることや立ち止まることも必要です。「わからない時間」を、教師がどこまで待てるか。これは今の学校にとって、とても大きな問いだと思いました。

 

二つ目は、AIと評価の話。

 

森田さんは、「何をすれば評価されるかがわかっていて、その通りにできること」を人工知能的な知能と表現していました。正解が決まっている問題に素早く正確に答えること、基準に沿って高い評価を取ること。もちろん、それも大切な力です。ただ、AIが急速に進歩する今、人間まで「評価されることを正確にこなす」方向だけに伸びていけばよいのか、という問いが生まれてしまいます。

 

森田さんが対照的に語っていたのが「天然知能」です。自分の知らないものに出会って驚くこと、意味や役立ちがまだわからないものに心が動くこと、予想もしなかった方向へ進んでいくことです。教師はつい、「この活動のねらいは何か」「何ができるようになったか」を明確にしようとします。しかし、子どもの学びには、まだ意味になっていないもの、評価の物差しでは捉えにくいものもあります。AI時代だからこそ、すぐに役立つことだけでなく、「なんだかわからないけれど気になる」という感覚を守ることが、これまで以上に大切なのかもしれません。

 

三つ目は、「子どもはコントロールできない」という話。

 

森田さんは、子どもを自然になぞらえ、教師にできるのは思い通りに動かすことではなく、よく観察し、今どんな動きが始まろうとしているのかに注意を向けることだと話していました。算数に少し興味を持ち始めた、友だちとの関係が少し変わってきた、今なら挑戦できそうだ。そうした小さな変化を見取り、そこに関心を寄せる。森田さんはそれを「ケア」と重ねていました。

 

若い頃ほど、教師として「何かをしてあげなければ」と思いがちです。授業を成功させたい、子どもを伸ばしたい、できるようにしたい。でも、学びは予定通りには進みません。すぐに届かない言葉があり、谷を歩く時間があり、こちらの想定を超える方向へ伸びていく子どもがいます。だからこそ、教師の仕事は、子どもの成長をつくることだけではなく、まだ見えていない変化に気づけるよう、そばに居続けることなのかもしれません。森田さんの話を聞きながら、そんなことを考えました。

2026年9月8日火曜日

「災害支援で大切なDWATのアプローチ」を教育に応用すると・・・・

NHKラジオの「けさの“聞きたい”令和8年熊本地震 DWAT 新たな災害支援の枠組み」を聞いていたら、DWAT(Disaster Welfare Assistance Team=災害派遣福祉チーム。Welfareは生活を守ることが目的)の活躍が最近の災害支援に欠かせなくなっていることが紹介されていました。医師や看護婦が災害地に入って活躍するDMAT(MはMedical、つまり医療、命を守ることが目的)はよく知られています。

 東日本大震災で、DWATの必要性が認識され、熊本は災害が多いことから、DWATの(平時から準備する)必要性を認識したそうです。一昨年の能登半島地震にも熊本のDWATは派遣され、次のようなステップで活動は行われたそうです。現地の状況を把握する先遣隊(初期アセスメント)➡どの程度の規模でどのくらいの期間派遣するかを決定➡その後に派遣された10チームは前の隊から情報を引き継ぐ形で活かされていく(形成的評価)。

災害関連死を防ぐのに大きな役割を果たすのがDWAT。避難所を場所として見るだけでなく、人として見る必要性。場所から人へ視点を転換することが大切。同じ場所にいても、一人ひとりの健康状態、生活歴、家族関係、必要としている支援は違う。その違いを把握し、その人にとって必要な支援を提供することが大切。避難所から次の暮らしにつないでいく大事な役割を担っている。つまり、「避難所で支える」から「地域で支える」への転換をサポートする役割。

 以上が、ラジオで紹介されたDWATの概要です。特に、ひっかかった点は以下の二点です。

①     初期アセスメント(診断的評価)の大切さと、その後の形成的評価の大事さ。

②     そして何よりも、「同じ場所にいても、一人ひとりの健康状態、生活歴、家族関係、必要としている支援は違う。その違いを把握し、その人にとって必要な支援を提供することが大切。避難所から次の暮らしにつないでいく大事な役割を担っている」は、そのまま教室の中で行われている授業にも活かさないとまずいと思いました。

①については、『一人ひとりをいかす評価』、②については、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』が参考になります。

出典:https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=J8792PY43V_02_4329876&cid=jp-J8792PY43V (1週間後の9月15日(火)午前7:50まで、この聴き逃しが聞けます。)

2026年9月6日日曜日

教育でイノベーションは起こりにくい?

学校は変化を嫌う体質であると言われてきました。私は、長く学校教育に、様々な形で学校教育に関わってきました。高校教員として、教育行政として、大学教員として、そして、保護者としてです。やはり、学校は変わらない組織であるというのが実感です。実際、変わらない学校に対する考察はネット上でも多く見られます。★1

なぜ、学校は変わらないのか、変化を拒むとする要因を考えてみます。

第一に、教育というものの本質に関わる特殊性でしょう。変革を成長の糧として、新しいことにトライするビジネス界とは異なります。失敗すれば、修正すればいいというチャレンジはなかなか受け入れられない。子どもたちの未来、すなわち、成長や受験、就職といった人生の大きなハードル対して、実験的な試みを行うことは、かなり勇気がいることです。実験はできない。また、新しい取り組みの良し悪しを、短期的なデータで示すことはできても、子どもたちの長期的な成長までもは、見定めることが難しい。そのため、前例踏襲主義に陥りがちですし、新しい試みよりも、「これまで通り」が優先されがちです。新しい挑戦で成果を出すよりも、安全第一に、ミスやトラブルを少なくしたいという意識が働きがちです。

第二に、ステークホルダー(利害関係者)の多様さがあると思えます。教員、保護者、地域住民、教育委員会など多くの人が関わります。トップダウンで物事を進めることは嫌われる傾向もあり、関係者の合意を作り上げるには、膨大な時間と労力がかかるものです。また、保護者を含めて教育に関わるすべての人が、自分が受けてきた教育に「馴染み」があり、それが基準になりがちで、新しい変化や挑戦に反発を感じやすい傾向があると言えます。

第三に、多忙を極める学校現場の実情があります。授業、部活動、生徒指導、事務処理、保護者対応など、毎日毎日、それらに忙殺されています。新しい仕組みを学び、それらを取り入れようとする、精神的余裕も、時間的余裕もないと、痛感している教員が多いと感じます。

これらの要因が根強くある中で、教育にイノベーションを起こすことは、容易ではなさそうです。

ただし、一つだけ楽観的な見通しを与えてくれるのは、子どもたちが持っているポテンシャル、可能性を、自らの力で切り開くことは、できるということです。全体主義国家のように、思想や行動が制限されることはない。自ら進みたい方向に進む権利も、チャンスもある。極めて保守的で、これまで通りの教育が維持されたとしても、それをも突き破り、学び成長する子どもたちは必ず出てくる。子どもたちが伸びゆくことは許される社会にいるのです。

そうであるとすれば、なおさら、教育にイノベーションをもたらすことの意義は大きいと言わざるを得ません。子どもたちのポテンシャルを、今よりも、何倍も、何十倍も大きく発揮させられる方法があるとするのなら、そこに賭けるしかない。現状に留まるのは、罪深いことであるのかもしれません。

子どもたちの可能性を、最大限に引き出すことのできる新しい教育。これまでにない教育。今、私たちは、それを見据えた、大きな変革のうねりの中にいる。

私たちが、一歩を踏み出す勇気をもつことです。★2


★1「学校教育、変化嫌う体質から脱却できるか」

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE023WV0S1A101C2000000/

「【学校はなぜ変われないのか】本気で変化を望むならば「変えようとしないことが大事」という驚きのシステム思考」

https://diamond.jp/articles/-/345939

など多数


★2 新しい授業を創造する本・新しい教育を考える本

https://www.shinhyoron.co.jp/3331.html