2023年11月25日土曜日

評価を考える(総括的評価)

 

ここ3回ほど評価について考えてきましたが、今回は総括的評価について取り上げたいと思います。 

『成績をハックする』(新評論・2018)6ページで、著者のスター・サックシュタインはスタンフォード大学のキャロル・ドゥエックがその著書『マインドセット―「やればできる!」―の研究』で述べている成長マインドセットを紹介し、それを踏まえることで、生徒は学び続ける学び手に成長していくと述べています。

 

生徒たちが「C」という成績を手にしたとき、彼らは一方的な評価を下されたこともあって、自分自身に「C」というレッテルを貼ってしまいがちです。もし、この一方的な評価をなくせば、生徒たちは自分に貼られた文字や記号などといったレッテルではなく、自分の内側にある学び手の意識に目を向けるようになるでしょう。(『成績をハックする』6ページ)

 

一般的に学期末に通知表・成績表を生徒に渡す学校が多いと思いますが、5段階評定で12の成績を付けられた生徒はまさに自分自身に「C」というレッテルを貼ってしまいます。この否定的な評価が続けば、学びから逃げ出したくなるのは当たり前です。これは自己肯定感の醸成とは真逆の方向です。そうしたことから、これまでの日本の学校制度は劣等感を抱いた子どもたちを多数生み出してきたと言っても、過言ではありません。

私が今かかわっている学習塾の生徒たちの中にも、こうした「C」というレッテルを貼り続けられて、自分にまったく自信のもてない生徒もいます。彼らの一方的につけられたレッテルをはがしていくのは並大抵ではないことです。必要なことは、まず「成績の考え方・見方」についてもう一度よく考え、できることから変えていくことです。この点については、先ほどの『成績をハックする』(新評論・2018)が参考になります。

 

さて、総括的評価に話を進めましょう。

『一人ひとりをいかす評価』(北大路書房・2018)では総括的評価を次のように定義しています。(135ページ)

 

 総括的評価は、診断的評価や形成的評価よりも、よりフォーマルで「公式」なものです。それは、中間試験、章の終わりの試験、ユニット末試験、期末試験、プロジェクト、レポートなどの形で、指導したことの結果を評価するものとして使われています。

 

この内容には、多くの先生方が同意されるものと思います。また、このような記述もあります。(同書136ページ)

 

一つの授業やユニットの中のいくつかの区切りが終了した時点で総括的評価を行うことは、これから先の授業をする際の基盤となる力を生徒たちが獲得したか否かを教師が把握する助けになります。

 

まとめると、総括的評価とは目標として設定した知識・理解・スキルなどを生徒が身に付けることができたかどうかを診断して、その証拠(エビデンス)を生徒と教師に提供するものであると言うことができるでしょう。教師にとっては、自身の指導が効果的であったのか否か、生徒にとっては自身の学びにおいてまだ何が足りないのか、どの部分が不充分だったのかを振り返る絶好の機会となるわけです。したがって、総括的評価を行って、その結果を数字で生徒に(通知表などの形態で)伝えて、「ハイ、おしまい」では教師と生徒それぞれの成長のチャンスをみすみす失っていることになります。これは若い先生方に、あるいは教職に就こうと教職課程で学んでいる学生たちに特に伝えたいことです。

 

最後に総括的評価の形態をまとめておきましょう。

それは次のようなものです。(『一人ひとりをいかす評価』137ページ)

 

     伝統的な筆記試験あるいは閉じた課題:多肢選択式、短答式、穴埋め式、正誤式、解釈式など

     パフォーマンスを重んじる評価(以下、パフォーマンス評価と略す): 小論文、プロジェクトないし成果物作成、ポートフォリオ、パフォーマンス課題など

 

    このように多種多様な形態があるので、学習目標や学習のねらいに応じて最もふさわしい課題を採用するかを考える必要があります。単元の学習計画を考える際には、その点を考慮して考えておくことがよいでしょう。どの形態を採用すると、そこから生徒の学習の様子について、どのような情報が得られるかという点については、『一人ひとりをいかす評価』の138139ページに一覧表がありますので、参考にしていただくとよいと思います。

 先ほど引用した『成績をハックする』の最後のところに次のような一文があります。(216ページ)

私たちが生徒を評価する方法は、彼らの学びの捉え方に影響を及ぼします。したがって、もし私たちが、生徒たちの体験から否定的なものや表面的には肯定的に見えるものを取り除くことができれば、より多くの生徒が数字や記号で示される成績以外の素晴らしさに目を向けることができるようになるでしょう。

 

このあたりをよく噛みしめて、評価についての実践で、変えられることは何かを考えることが「自分を成長させ続ける評価」の第一歩となることは間違いありません。

 

2023年11月19日日曜日

理論 vs. 実践

研修会に参加した(り、教育書を読んだりする時)教師は、「理論的(抽象的)なことは飛ばして、実践的(具体的)なことだけをお願いします」と言います。

 これは、洋の東西に問わず、同じ傾向があるようです。でも、理論の大切さに気づいた先生たちは以下のように言います。

A先生: 私は、理論を知ることで授業をより良いものにすることができ、何が効果的で、何がダメなのかについて、より鋭い感覚で選択ができるようになりました。私がやっていたことの多くは「運に任せた」ものでした。

以前は、何かを試してみても、それを二度と使わないようなこともありました。今は、新しい教え方を考えるとき、自分が知っている理論でフィルターをかけることができています。また、それが、自分の授業のプラスになるのか、それとも単に自分を忙しくするだけなのかについても判断することができます(『歴史をする』40~41ページ)。

B先生:「理論を知った」ことでどれだけ自分が変わったか、言葉では言い表せません。よい教師になるということは、自分のやっていることに目的があり、何をすべきかを知っている教師になるということです。

あなたがすることは、学級経営に至るまで理論的なベースをもっていなければなりません。多くの教師は自然にやっていると思いますが、事前に理論を知っていれば、とてもやりがいがあります。偶然の出来事ではなく意図的にやっているわけですから。

理論を知っていると、さらに上のレベルへと導かれるのです(『歴史をする』81ページ)。

 ということで、同じところで足踏みをしたい先生には不要かもしれません(それは、子どもたちにとっては悲劇です)が、子どもたちによりよい授業を提供したい、常に成長し続けたい教師には不可欠なようです。

 『歴史をする』の著者たちは、「優れた理論は、教師が自分の経験を理解するうえで役立つもの、と位置づけています。優れた理論を通して、毎日教室で行われていることをより明確に理解することができ、教え方を振り返ることができるようになります。また、優れた理論は、生徒にとってより効果的で、意味のある授業を教師が計画するうえにおいて役立ちます」と書いています(同、42ページ)。

 それでは、優れた理論とはどのようなものでしょうか? しかも、歴史を含む社会科で有効なだけでなく、すべての教科領域で授業をする際に使える理論です。

 全部で、六つあります(同、第2章を参照)。

   教えることと学ぶことには目的が必要不可欠である。

   学ぶことは深い理解を意味する。

   教えることは、生徒がすでにもっている事前知識に基づく必要がある。

   人は探究の真っただ中で学習する。

   教えることは足場をかける(生徒に適切なサポートをする)ことである。

   建設的な評価で、生徒の学びが絶えず修正・改善され、教師の授業もよくなり続ける。

 このリスト、チェックリストとして使えます!

あなたは、どれはすでに押さえられていますか? 一方で、まだ実現できていないのはどれですか? さらに伸ばしたいのは、どれですか?

 それでは、一つずつ見ていきます。『歴史をする』から引用する形で紹介していきます。

 

  教えることと学ぶことには目的が必要不可欠である

目的のない教育は、子どもたちの学習意欲を奪うだけでなく、学習する能力を弱めてしまいます。学習は、生徒が自分の選択や行動に意味を見いだすときに起こります。それに対して、先生を喜ばせることや、合格点を得ることなど、歴史そのものと無関係なことを目的とした行動を生徒がとっていれば、生徒の知的成長は阻害されることになります。

優れた教育は、生徒が学んでいることを包括的な目的と結びつけることに焦点が当てられています。それは、生徒が調査のための問いを示し、深い理解をするための理由を提供し、調査結果を使うことなどによって行われ、彼らの知的成長と市民的な能力がサポートされることになります(同、48ページ)。

 「包括的な目的」とは、単にテストでいい点数を取ったり、教科書をカバーするためではなく、生徒たちがより意味を感じられる目的です。それには、自分のアイデンティティーを形成したり、民主的な社会に選挙以外の方法で参加するための知識・スキル・態度を身につけたり、「公共の利益」のために何が最善かを見極め、それを実現するために情報を分析したり、仲間や他者と協力したりするための方法を身につけたりすることが含まれます。

 

  学ぶことは深い理解を意味する

さまざまな分野の専門家と初心者の違いを調査した心理学的な研究によると、能力の高い人は、単に知識が豊富であったり、一般的な知性や推論する力が必ずしも高かったりするわけではなく、その分野の重要な「概念」をより理解しており、それらの概念を、いつ、どのように適用すればよいのかということについての理解が進んでいることが分かっています。(中略)このような観点から、単に事実を多く知っているだけでは理解が深まるとは言えません。生徒は、それが何を意味しているのか、なぜ重要なのかについて分からないまま事実を学ぶことがあります。(中略)したがって、よい教え方とは、単に大量の事実に基づいた情報を網羅するのではなく、重要で体系的なアイディアとしての「概念」が身につけられることに重点を置いて教えることとなります(同、50~51ページ)

 社会科の概念には、どのようなものがあるでしょうか? 理科は? 算数・数学は? 国語は? その他の教科は?

 

  教えることは、生徒がすでにもっている事前知識に基づく必要がある

生徒が理解を深めるために、教師は生徒が学校にもってくる知識を直接取り上げ、可能なかぎりそれを土台にする必要があります。人が学習するためには、すでにもっている知識と新しい経験を結びつけること(専門用語では、スキーマを再構築すること)が欠かせないのです。(中略)いずれにしても、学習は受動的なものではありません。人は、新しく出合ったものとすでに知っているものを比較しなければならないのです・・・生徒が知っていることを土台にすることができなければ、生徒は学ぶことができないのです。

残念ながら、教科書やその他の教材では、生徒における事前の理解が注目されることはほとんどありません。もちろん、すべての生徒、すべてのクラス、すべてのコミュニティーが異なっているため、どの教科書も生徒の多様な経験や理解の範囲に対応することはできません。教えることと学ぶことに関する研究では、学校での経験が事前の理解と結びついていない場合、生徒はほとんど学習できないということが一貫して示されています。(中略)情報を理解するためには、新しく得た情報をただ再生するのではなく、それを以前の理解と結びつける必要があります。教科書ではそれができません。生徒のことを一番よく知っている教師が、生徒は何を知っているのか、そしてその知識をどのように構築するのかを、生徒に代わって見つけ出さなければなりません。(同、55~57ページ)

 教科書に対する手厳しい指摘が続きますが、それは多くの教師は口にしないだけで、実践を通して強く認識していることだと思います。最後のところの、「知識を構築する」は、知識の捉え方も転換が必要なことを示唆しています。教科書に書いてあることや教師が言うことは、知識ではなくて、あくまでも情報です。知識は、一人ひとりの生徒がそれまでに自分がもっている事前知識を踏まえて、新しい意味をつくり出した結果と捉えられます。情報は忘れられやすいですが、知識はかなりの確率で残るものです。

 

  人は探究の真っただ中で学習する

人間の学習に関する研究と教師としての私たち自身の経験は、学習の「伝達モデル」と矛盾しています。伝達モデルとは、知識はある情報源(教師であれ教科書であれ)から別の情報源(生徒)に直接伝わると仮定するモデルのことです。私たちは、報酬や罰のシステムをどれほど精巧なものにしても、子どもたちを単なる情報でいっぱいにすることはできません。私たちは生徒のために点と点をつなげることはできません。人は、自分にとって重要な意味をもつ問いに対する答えを求めるときに学習するのです(同、60~61ページ)。

 これは、要するに「探究モデル」で学んでいる時を意味します。それは別な言葉でいえば、次のようになります。

生徒は(歴史家や数学者や作家や・筆者補記)科学者や市民、芸術家、ビジネスマンなどと同じような課題に取り組むことで学習の目的をより理解し、学んだことを保持し、応用する可能性が高くなります。クラスメイトや教師、その他のコミュニティーの人々も、自分と同じようにこれらのプロセスに取り組んでいると思えることが、本物の学びに関するアプローチの中心的な特徴となります(同、63ページ)。

 「これらのプロセス」とは、探究や問題解決のサイクルのことで、

社会科は、https://projectbetterschool.blogspot.com/2022/09/blog-post_18.html

国語はhttps://wwletter.blogspot.com/2012/01/blog-post_28.html

算数は、https://wwletter.blogspot.com/2019/02/blog-post.html

理科は、https://projectbetterschool.blogspot.com/2019/12/blog-post_22.html をご覧ください。教育で大切なのは、教師が用意した活動やプログラムを生徒にやらせることではなく(それは、単に教師への依存を高めるだけ?)、生徒一人ひとりが自分でこれらのサイクルを回せられるようにサポートすることなのです。

 長くなってきましたので、残りの二つは次回紹介します。

2023年11月12日日曜日

持続可能な社会への「脱成長」

世界は長らく戦争や内紛、経済的格差、地球規模での環境問題といった重大な課題に直面しています。これらの問題に対処するため、私たちが取るべき道は、持続可能な社会を築くことです。

 

現在、私たちが行っている教育活動が、社会の改善にどのように寄与できるかを考えることは重要です。子どもたちと共に築く社会についてのビジョンを持つことは、未来の方向性を確立する第一歩となります。まずは立ち止まり、どのような世界を望むのかを考え、議論してみる必要があります。よりよい世界へ向かうために、ジェイソン・ヒッケルの著書『資本主義の次に来る世界』を参考に、具体的なアプローチを探ってみましょう。



 

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私たちは今、人新世(Anthropocene:アントロポセン、人類の時代)と呼ばれる時代に生きています。この時代は、人類の活動が地球に深刻な影響を与えていることを意味します。気候変動、生態系の回復力の低下、そして私たちの文明そのものが危機に瀕していることが、これらの現象から明らかになっています。この問題の根本にあるのは、私たちが採用している経済システム、すなわち資本主義なのです。

 

資本主義は、絶え間ない拡大、つまり成長を要求し続けるシステムです。世界のGDPは、少なくとも年間2%から3%成長し続ける必要があり、これは23年ごとに経済規模を倍にするということを意味しています。この成長の要求が、地球に対する私たちの影響を増大させ、結果として生態系の崩壊を加速させてしまっているのです。

 

政治家たちは、この成長主義を信奉していますが、それによって生態系崩壊を食い止めるための有意義な行動を起こすことが困難になっています。一方で、技術の進歩はGDPを生態系の影響から切り離す可能性を秘めていますが、現在の成長志向の経済システムでは、この技術進歩がさらなる成長のために利用されてしまっている現状があります。

 

2018年、238名の科学者が、GDP成長を放棄し、人間の幸福と生態系の安定に重点を置く新しい経済システムの必要性を訴えました。彼らは、成長から脱却することで、私たちが何を生産し、人々が生活に必要なものにアクセスできるか、所得がどのように分配されるかに重点を置くべきだと主張しています。

 

高所得国は、さらなる経済成長を必要としていません。むしろ、私たちは経済を資本蓄積のためではなく、人々の幸福のために再構築する必要があるのです。地球温暖化を1.5度以下に抑え、生態系の破壊を阻止するには、資源の消費を減らし、エネルギー消費を削減することが重要なのです。

 

「脱成長」とは、経済を成長させないままで、貧困を終わらせ、人々をより幸福にし、すべての人に良い生活を保障できるということです。脱成長は、経済の物質・エネルギー消費を削減し、生物界とのバランスを取り戻すことを意味します。このプロセスでは、所得と資源を公平に分配し、公共財への投資を通じて人々を不必要な労働から解放することが含まれます。

 

脱成長が実現すれば、GDP成長は停止、あるいはマイナスに転じるかもしれませんが、GDPは重要ではありません。脱成長は成長を必要としない新たな経済モデルへの移行であり、その中心は無尽蔵な資源の蓄積ではなく、人類の繁栄と生態系の安定にあります。

 

このアプローチでは、クリーンエネルギー、公的医療、公共事業、環境、再生可能農業などの分野の成長を重視し、化石燃料、プライベートジェット、武器、SUV車などの生態系を破壊する部門を縮小する必要があります。大量消費の停止に向けては、以下の5つのステップが提案されています。

 

1. 計画的陳腐化の終了

企業が故意に製品の耐用年数を短く設計する「計画的陳腐化」を止める必要があります。例えば、1920年代にアメリカの電球メーカーが行ったように、製品の寿命を短くすることで販売数を増やす戦略です。これに対抗するためには、保証期間の延長を法律で義務付け、修理の容易さを確保することが求められます。例えば、家電製品の寿命を25年まで伸ばす技術はすでに存在し、これにより製品の消費量を大幅に減らすことができます。

 

2. 広告の削減

広告業界は、過剰な消費を促進する戦略の一環として長年にわたって発展してきました。消費者に不要な商品を購入させるための心理操作が行われています。例えば、ファッション業界では、トレンドに敏感な消費者をターゲットにした短命の製品が市場に溢れています。広告の削減は、不合理な消費決定を減らし、より持続可能な消費行動を促進することに繋がります。

 

3. 所有権から使用権への移行

資本主義社会においては、個人所有が一般的ですが、これが非効率と過剰消費を招いています。例えば、月に一度しか使わないような芝刈り機や工具などを個人が所有するのではなく、地域共有のリソースとして管理することで、製品の必要性を大幅に減らすことができます。また、公共交通の強化やシェアリングエコノミーの促進も重要です。

 

4. 食品廃棄の終了

世界的に見ると、生産される食品の約50%が廃棄されています。高所得国では、スーパーマーケットの厳しい基準や消費者の購買行動が原因です。一方、低所得国では輸送や保管の問題が主な原因です。この問題に対処することで、農業の規模を半分に減らし、CO2排出量を削減することが可能になります。

 

5. 生態系を破壊する産業の縮小

例えば、牛肉産業は大量の土地と資源を消費し、森林破壊の一因となっています。このような資源効率が低い産業を縮小し、より持続可能な代替品への移行を進めることが求められます。牛肉の消費を減らすだけで、大規模な土地が森林再生に利用できるようになり、CO2排出量も大幅に削減できます。

 

これらのステップは、私たちの日常生活や経済システムにおいて、より持続可能な選択を行うための基盤となります。それぞれのステップは、地球環境への負荷を減らし、より良い未来への道を切り開くために重要な役割を担っているのです。

 

 

 

私たちは、人間と自然の関係についての古い二元論から脱却し、アニミズムのような存在論に回帰する必要があります。この考え方は、人間と自然が相互依存の関係にあり、共に生きていることを認識します。現代の科学も、この考え方に追いつきつつあります。最終的に、私たちは経済を成長の必要性から解放し、生態系の安定と人間の幸福に重点を置く新しい経済モデルを採用することが求められています。この新しいパラダイムは、私たち全員にとって持続可能な未来への道を開くことでしょう。

 

改めてありたい社会とはどういうものか、考えてみてください。

 

2023年11月5日日曜日

今こそ、授業を考え直し、新たな実践に踏み出す時!

 訳者の一人の飯村寧史さんが書いてくれた文章を紹介します。扱っている本は、『みんな羽ばたいて 生徒中心の学びのエッセンス』(キャロル・アン・トムリンソン著、新評論、2023年)です。


 日本の教育界は、数年来のコロナウイルス感染症の流行に伴い、授業のやり方、評価の仕方も大きく変化をすることとなりました。そして、ポストコロナの今、教育のあり方を模索しているところだと思います。一方では、ICTを使った授業への問い直し、旧来の在り方への揺り戻しがあり、また一方では、より一層ICTを用いた授業を進展させ、授業を変革していこうという方向性もあります。そして、多くの先生はその中道を行こうとし、従来の授業の良さとICTの良さを組み合わせた授業を模索しているのではないでしょうか。

 こういう時こそ、自分の授業(なおこのなかには、評価の仕方や学習環境のつくり方なども含みます)をもう一度見直し、考え直すことが大切だと思います。一体、生徒にとって何が大事なことなのか、自分が授業をどう考えているかを問い直すちょうどいいタイミングといえるのではないでしょうか。

 今回ご紹介する本書は、まさにあなた自身の授業を見つめ直すのに絶好の本だと思います。著者が長年にわたり実践してきた生徒中心の学びを語ることを通して、著者の教育にかける願いや考え方、そして実践例がふんだんに盛り込まれた著作です。(あまりにページ数が多くなってしまうため、一部を割愛せざるを得なくなるほどのボリュームでした。)この本の面白いところは、著者自身が、旧来の教育に疑問を持ち、悩み、生徒中心の学びに転換し、その正しさに確信を得てきたという、教師としての苦悩と変化の遍歴が読み取れるところです。本書を読めば、きっとあなたもご自分の教師人生と比較しながら、授業を考えることができるでしょう。

 私にとっては、特に第6章「評価」が印象に残っています。

 冒頭では、著者自身の悩みが描かれています。

 「私が生徒だった頃から変わらずにある、学校の代名詞とも言える「テスト・成績・通知表制度」は恐ろしいほどまちがったものに思えます。しかし、教師になった私はこの制度を継続していました。なぜなら、私にはそれに代わるだけの、筋の通った代案がなかったからです。」(228ページ)

 この文章を読んでいるあなたはどう思いますか?

 私は公立中学校教員なのですが、いまだに、この状態を抜け出せません。テストが嫌で学校を休んでしまう生徒、保護者に「テストで○○点とったらスマホを買ってあげる」などと言われている生徒、学校内の順位が気になる生徒、通知表の評定が高校入試に響くことを恐れている生徒など、この制度の犠牲になって嫌な思いをしている生徒を数多く見てきました。その都度、慰めの声をかけることはできても、この制度を変えることはできませんでした。なんとも空しい気持ちです。

 しかし、本書では、学問的にも、実践的にもこのような評価の仕方は百害あって一利なし、シフトするべきであると述べています。読んでいる私自身の「テスト・成績・通知表制度」に対するモヤモヤとした気持ちが晴れて、自分の疑問はやはり妥当なことだったのだ、と思えます。

 そして、真の意味での評価とは何か、そしてその方法はどんなものか、ということについて、十分に整理して説明を重ねていきます。特に、評価の種類の中でも、特に大事なのは形成的評価としています。日本では授業の際の「見取り」が大切だとよく言われます。そのことと共通する内容が書かれています。以下に抜粋します。

 「したがって、教師の関心は、「クラス全体の生徒」ではなく、一人ひとりの成長と幸福にあります。要するに、形成的評価とは、一貫して、持続的に、そして一瞬一瞬、学び続ける生徒たち一人ひとりを、教師が注意深く観察することなのです。」(249ページ)

 とはいっても、私などは、見取りというものについては、ぼんやりとしたイメージしか持っていません。実際に何をするべきかはピンとこないものでした。せいぜい、この生徒はできているな、この生徒はよくわかっていないな、といった、雰囲気で判断するくらいのものだと思っていました。

 しかし、本書を読めば、このような雰囲気の判断は、「非公式(インフォーマル)な形成的評価」という、評価の一部分にすぎない、ということがわかります。大事なのは、それを補う「公式(フォーマル)な形成的評価」、そして、教師、生徒からのフィードバックなのです。この辺りは、日本の学校でもぜひ補うべきものなのではないでしょうか。

 公式な形成的評価の例として、本書では「出口チケット」や「カンファランス」について説明されています。雰囲気だけではなく、一人ひとりの生徒にとって本当に必要なものは何かということをはっきりさせるためです。本当の意味での「見取り」をしたいというならば、ここまでやらなくては、と思わされます。しかも、これらは決して難しいことではなく、すぐに取り入れられるものです。(もちろん、手続きや声かけの方法については教師の側の理解と練習が必要ですが。)

 また、評価をしたとしても、その後の授業があまり変わらないのでは意味がありません。一人ひとりの生徒へのフィードバックが大切です。これについては、教師からのフィードバック、生徒同士のフィードバック(ピア・フィードバック)の方法が紹介されています。

 近年、「学び合い」が大切であり、有効な方法だということは、日本の学校でも浸透しつつあります。しかし、恐ろしいことに、次のような記述もありました。

 「もちろん、生徒間のピア・フィードバックが自動的に効果を発揮するわけではありません。ある研究によると、授業中に受けた口頭でのフィードバックの80%はクラスメイトからのものであるということがわかりました。また、この研究では、そのフィードバック情報のほとんどがまちがっている、と結論づけています。」(262ページ、ピア・フィードバックについては、本書以外に『ピア・フィードバック』を参照してください。)

 こうしてみると、生徒を見取ることや、学び合いを重視することといった、私たちが当然のものとして、信じて行っていることの危うさも見えてきます。私の場合は、本書を通して、評価についての考え方がより明確になりました。ぜひ、自分の実践に組み込んでいきたいものです。

 本書は、教師、生徒、学習環境、カリキュラム、評価、教え方、と、授業の幹となる要素から目を逸らすことなく、真っ向から取り組み、描こうとした、まさに著者の授業についての考え方を著したものといえます。

 表題にある「みんな羽ばたいて」は、生徒にも、教師にも向けられたメッセージです。どうか、本書を読んで、ご自分の授業を見つめ、明日からの授業で、あなた自身も、そしてあなたが目の前にする生徒も羽ばたけるように、考えてみてください!