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2020年10月25日日曜日

集中から分散へ

これまで東京一極集中で進んできた日本社会において、現在のコロナ禍で「集中」から「分散」へという流れができ始めています。これは人口の問題だけでなく、エネルギー政策においても同様の流れが求められつつあるものです。

しかし、政府は東日本大震災に伴う福島原発事故が未だに収束していない現時点においても、原子力をエネルギー政策の中で、「ベースロード電源」と位置付けています。欧州においては、すでに脱原発が常識になりつつあり、しかも太陽光・風力発電が技術的な進歩もあり発電単価が10年前に比して、太陽光は1/10程度、風力は1/3程度になりつつあるのです。これまでは、原子力が他の自然エネルギーよりも安価な電源であると盛んに宣伝された時代もありましたが、全くそれは過去のものになりつつあります。 

先月発売された『メガ・リスク時代の「日本再生」戦略』(飯田哲也・金子勝/筑摩選書)を読むとその辺の事情がよくわかります。かつて、2000年代には日本企業が太陽光パネルなどの技術においても世界の先端を走っていたのですが、その後エネルギー政策が原子力中心に傾斜していったため、今やその分野のトップ10に日本企業は1社も入っていないありさまです。

このような誤ったエネルギー政策も霞が関の官僚制度や政策形成によるものだと先ほどの本に指摘があります。(同書83ページ) 

日本の官僚は、個々人は優秀だとしても、ほぼ2~3年ごとに部署を異動する人事慣習があるため、新しく着任した分野で、海外における政策体系やそのベースにある知識体系に精通することは不可能です。例えて言えば、難しい脳外科手術をインターン医師が執刀するようなものです。しかも、日本の行政における政策や制度設計のプロセスは、とても閉鎖的かつ独占的です。審議会の委員も、役所や業界の都合で選ばれることがほとんどです。その審議会も形ばかりのもので、政策・制度の実質的な部分は、事務局を担う役所がすべて決定します。日本の環境エネルギー政策が「2周遅れ」「ガラパゴス」「聞く耳をもたない」などと批判される一因は、こうした政策・制度のプロセスにあるのです。 

これは、教育政策を担う文部科学省にも当てはまることです。この30年間様々な教育政策が打ち出されてきましたが、ことごとく失敗であったことはご承知のとおりです。カリキュラム・マネジメントを現場に押し付ける政策立案者自身が自分たちの作った政策のマネジメントを全くしていないというわけです。最近の大学入試改革をめぐるドタバタは悲劇を通り越して、喜劇にも見えてしまいます。それに振り回される現場の先生方や高校生には心の底から同情します。

ヨーロッパの官僚たちはその分野の博士号の取得者であることが多く、10年、20年と同じ部署の仕事を続けることが多いそうです。そうしたやり方をしない限り、素人が政策決定をすることになるわけです。 

世界は今や「エネルギー分野」「情報通信」「バイオ医薬」といった産業分野において、歴史的な転換点を迎えていると言われます。ところが、そのどの分野においても「周回遅れ」の状態になっているのがわが国の現状です。(教育分野でも「ICT」における決定的な遅れは今回のコロナ禍で露にされました。)

もはやこうしたことでは、挽回不可能にも思えてしまいますが、これまでのような中央集権ではなく、それぞれの地方主権の教育へと回帰することが唯一の改革の方法のようにも思えてきます。要するに、国としての大枠の縛りは緩やかにしておいて、地方ごとに、教育で言えば自治体や学校ごとにその責任者が任された裁量の中で、創意工夫していく、そのようなやり方こそが再生への近道のように思います。そしてそれは、学校経営だけではなく、教員研修や授業づくりにおいても同様に通じるものであると考えます。

2019年11月23日土曜日

PDCAサイクルの神話

この「PDCA」という用語をめぐってはいくつかの神話があるということを初めて知りました。社会方法調査論や組織社会学が専門の佐藤郁哉さんの著書『大学改革の迷走』ちくま新書2019.11に書かれていた内容を紹介します。同書の92ページから96ページにかけて次のような説明があります。

①     使用言語に関する神話
×(誤解)PDCAは英語表現である→〇(事実)和製英語である
PDCAとPlan ,Do ,Check ,Actionは通常アルファベット表記されます。そのため、これらは英語の略語と受け取られる場合が少なくありません。しかし、これは完全な誤解です。・・・・(以下省略)

②     発案者をめぐる神話
×最初にPDCAを提案したのは米国の統計学者エドワーズ・デミングである
→〇提唱者は日本の工学者である
使用言語をめぐる神話は、PDCAサイクルの発案者をめぐる誤解と密接に結びついています。・・・実際には、PDCAサイクルは1960年代に、石川馨(東京大学教授を経て武蔵工業大学学長)と水野滋(東京工業大学教授)の両氏を中心とする日本の工学者たちによって提唱されていった手法なのです。・・・(以下省略)

③     学問分野に関する神話
×経営学分野の学術用語である→〇生産管理や品質管理の分野で使われてきた経営用語である
『新大学評価システムハンドブック』(大学基準協会2009)には次のような解説があります-----「経営学で言われてきたPDCAサイクルとは、目標・計画を立て(Plan)、実行し(Do)、結果を点検・評価し(Check)、改善・見直しを行う(Action)といったプロセスを意味しています」。これは、明らかに事実とは異なります。・・・・(以下省略)

④     国際的な認知をめぐる神話
×国際的に広い分野で高い評価を受けてきた→〇限定された分野で一定の評価を受けてきた
PDCAサイクルの図式は、1990年代後半から2000年代にかけてISO14001(環境マネジメント・システムに関する規格)やISO9001(品質マネジメント・システムに関する規格)などの国際認証規格シリーズにも取り入れられてきました。この点を根拠にして、PDCAサイクルが国際的に広い範囲で高い評価を受けてきた、という印象を与えるような解説がなされる場合があります。しかし海外では、認証規格や工業製品の品質管理の分野以外では、PDCAサイクルが取り上げられることはそれほど多くはありません。

⑤     汎用性に関する神話
×広い適用範囲を持つ万能のマネジメント・サイクルである→〇特定の業務については有効である
日本では、PDCAサイクルをほとんどあらゆる業務に応用できる経営原理として扱うことが少なくありません。実際、PDCAが適用可能だとされる業務や課題の範囲は、企業活動だけでなく病院や学校の運営、資格試験のための勉強さらには「婚活」にいたるまで非常に多岐にわたっています。
これは一種の幻想に過ぎません。・・・(以下省略)
 
 どうですか。これが「PDCAサイクル」の神話です。
多くの組織がその出所をよく確かめもせずに、いわゆるコピー&ペースト「コピペ」をしてきたわけです。そもそもの適用範囲は工業製品の生産管理・品質管理の範疇でした。それを学校のマネジメントにまで拡大解釈して、果てはカリキュラム・マネジメントに応用することなど、もっともらしい話として語られてきたわけです。
先ほどの③に登場した大学基準協会のハンドブックにも書かれていました。学生にはコピペするなと言いながら自分たちがやっていたという笑えない落ちまでついてきました。この協会自身がPDCAサイクル(?)を回してこなかったことを図らずも証明したようなものです。
それと文部科学省です。最近、「PDCAサイクル」を呪文のように唱えてきた文科省自身がこのサイクルを回していたならば、この30年ほどの様々な施策がほとんど失敗するようなことにはならなかったでしょう。(もっとも彼ら自身は失敗とは認めないでしょう。官僚に誤謬はないそうです。)

これ以外にも、これまでの文教施策が迷走してきた理由が明解に説明されています。興味のある方はぜひ、佐藤郁哉さんの著書『大学改革の迷走』ちくま新書2019.11をお読みください。
また、審議会方式の意思決定のあり方がいかに恣意的なものであるかなどについても考えさせられることがたくさんあります。結論ありきで官僚の書いた筋書き通りに進められる政策決定のあり方を根本的に考え直す時期に来ています。
教育の世界で言えば、「中央教育審議会」における「教育には素人の人々」の思い付きの発言がいかに本質をゆがめているか、あるいは利益誘導とも思える大学入試をめぐる最近のさまざまな出来事など、その類の事例には事欠きません。まず、そのような事実を多くの人と共有することから始めるしかないようです。

2018年11月23日金曜日

文部省著作教科書「民主主義」

本の帯は、書店で平積みになっている本をPRする点で重要です。
ある日、仕事帰りに書店に立ち寄ると「読み終えて、天を仰いで嘆息した」と帯に書かれている本を見つけました。このPR文の書き手は内田樹さんのようです。そこで、手に取って中身を読むことにしました。本のタイトルは「民主主義」(著作・文部省)角川ソフィア文庫(2018)です。この本は、中高生に「民主主義」を教えるために書かれた教科書とのことです。
もちろん当時はまだGHQが日本にいた時代に書かれたので、GHQの検閲もあり、そうした占領軍への配慮もしながら、民主主義について解説したわけです。

読み進めると面白い発見が次々と出てくるではありませんか。
第14章「民主主義の学び方」の第二節「学校教育の刷新」には次のようなくだりがありました。

これまでの日本の教育は、一口でいえば、「上から教え込む」教育であり、「詰め込み教育」であった。先生が教壇から生徒に授業をする。生徒はそれを一生けんめいで暗記して試験を受ける。生徒の立場は概して受け身であって、自分では真理を学びとるという態度にならない。生徒が学校で勉強するのは、よい点を取るためであり、よい成績で卒業するためであって、ほんとうに学問を自分のためにするのではなかった。よい成績で卒業するのは、その方が就職につごうがよいからであり、大学で学ぼうというのも、主としてそれが立身出世のために便利だからであった。

これが出版されたのは昭和23年から24年にかけてのことでした。なんとこの70年間、わが国の学校教育はここで指摘された状態がそのまま続いてきたわけです。もちろん、各地で「刷新」と呼ぶにふさわしい実践があったかも知れませんが、大勢はここで指摘されたことが紛れもなく続いてきたと言えるでしょう。

また、次のような一文もあります。

がんらい、そのときどきの政策が教育を支配することは、大きなまちがいのもとである。

今の文科省の職員と中教審のメンバーに読ませたいものですね。
小学校英語、プログラミング教育、道徳の教科化と、どれをとっても「そのときどきの政策」が教育に介入してきたものばかりです。また、道徳に関しては、次のような文言もありました。

 ことに、政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである。今までの日本では、忠君愛国というような「縦の道徳」だけが重んぜられ、あらゆる機会にそれが国民の心に吹きこまれてきた。そのために、日本人には何よりもたいせつな公民道徳が著しく欠けていた。
 公民道徳の根本は、人間がお互いに人間として信頼しあうことであり、自分自身が世の中の信頼に値するように人格をみがくことである。

 「縦の道徳」とはうまい表現です。現在の道徳の教科化がこの方向の復活にならないことを切に願いますが、個人としての人格の完成を目指す教育を忘れずに進めたいものです。
歴史に学ぶことは大切ですね。過去の過ちを繰り返さないようにするためにも。

先ほどの「上から教え込む」教育にならないような方法は、この「PLCだより」で数多く取り上げてきたと思いますので、それらを参考に、まずは校内で実践してみましょう。
そして、その情報をオープンにして、知りたいという人にはどんどん情報を提供していきましょう。それが今一人一人ができることの第一歩だと思います。
 


2018年7月28日土曜日

「規制緩和」「市場原理主義」がもたらしたもの

「規制緩和」という言葉を耳にして久しいが、いつの間にか「市場原理主義」が当たり前になり、格差社会という言葉も定着してしまいました。
 教育の世界においても、「規制緩和」「市場原理主義」の例外ではありません。
 小中学校の公立学校教職員給与の国庫負担が国の1/2負担が1/3になってから、非常勤職員の数が急増しました。様々な職種の人間が学校という組織の中に入ってきたことを歓迎する一方で、この非常勤職員の増加は新たな問題です。

 また、目を高等教育に転じてみると、基礎科学研究が凋落している様子がわかります。
6月に公表された科学技術白書によると、次のように述べられています。

「我が国においては、論文数の減少や、論文の質の高さを示す指標の一つである被引用数Top10%補正論文数の国際シェアの減少など、研究力に関する国際的地位の低下の傾向が伺える。2017年3月にNature誌においても、科学論文の国際シェアの低下など、日本の科学研究が近年失速している旨の指摘が掲載された。」

さすがの白書も近年の研究力低下を認めざるを得ませんでした。
科学技術がこの国にとってどれだけ大切かは改めて言うまでもありません。その分野において凋落が認められるというのは看過できないことです。その凋落の原因は何にあるのでしょうか。

サンデー毎日7月8日号をお読みになった方はいらっしゃいますか。
その中の内田樹氏の書いたものを見るとその謎が解けます。
それは、国立大学の「独立行政法人化」です。少し引用します。

「国立大学の独立行政法人化は21世紀の初めごろから日本社会を覆い尽くした怒涛のような「株式会社化」趨勢の中で決定された。「株式会社化」というのは、「すべての社会制度の中で株式会社が最も効率的な組織であるので、あらゆる社会制度は株式会社に準拠した制度改革されねばならない」というどこから出てきたか知れない怪しげな「信憑」のことである。」

このような株式会社化された大学では学長や理事長というトップに全権が集約されるようになり、教授会は諮問機関に格下げされました。大学の自治や学問の自由などと言っていた時代が遠い昔のようです。当然のように、研究も成果がすぐに出るような研究ばかりが選ばれ、先行き不透明な研究には資金が配分されにくくなりました。こうなると基礎研究は出番がなくなります。これが、科学技術白書で語られた「日本の科学研究が近年失速している旨の指摘」につながっているわけです。

内田氏のこの文章には、この後にさらに「入試「英語」改革への疑念」という気になる記述が続きます。また引用します。

「文科省の最新のスキャンダルは20年度からの国立大学入試への英語の民間試験の導入である。これについては大学中学高校のほとんどすべての英語科教員が反対している。
 この決定は密室で、少人数の関係者による、ごく短期間の議論だけで、実証的な根拠も示されず、英語教育専門家の意見を徴することなく下された。実施の困難さや問題漏洩のリスクや公正性への疑念や高校教育への負の影響についても何の説得もなされなかった。
 民間試験導入を強く推進した当時の文科相が私塾経営者出身で学習塾業界からの資金援助を受けていること、有識者会議で民間試験導入を強く主張した委員の経営する会社が民間試験導入決定後に英語教育事業を立ち上げたという「醜聞」が報道された。
「私利のために受験者数数十万人の試験制度の改変を企てたのではないか」というような疑念はかつての日本の大学入試で呈されたことはない。でも、そういうことが起きても不思議はないほどに日本の教育行政は劣化している。」

この記事が出た後、7月4日に文科省の科学技術・学術政策局長が東京地検に私大支援事業にかかわる受託収賄の疑いで逮捕されました。真相はまだわかりませんが、「教育行政の劣化」の一つでしょう。

しかし、それでも前を向いていくしかありません。資源がないわが国がこれからさらに厳しさの増す国際競争のなかで生き延びていくために多くの知恵を集める必要があります。

SF小説で2度映画化された「日本沈没」をご存じでしょうか。
あの小説の最後は、日本列島から多くの人々が海外に集団で移住するというストーリーでした。最近まで他人事のように見ていた「中東からヨーロッパへの移民の苦難」が日本人にいつ降りかかってくるかわかりません。だれもが不安な時代に入りつつあるようです。
だから、そんな不安につけこみ、怪しげな新興宗教が台頭してきます。
最後は「ものごとの本質を見抜く力」が求められるのだろうと思います。そのためにも「深い学び」が必要だと思います。

2017年2月26日日曜日

好奇心を大切にする


2月5日のこのブログで紹介のあった『好奇心のパワー』(新評論)の内容についてふれてみたいと思います。


 
「第3章 聴き方を選択する」では、最初のページ(p.65)に次のような言葉が紹介されています。
   
「人間の欲求で最も基本的なものは、人を理解したい、そして人に理解されたいという欲求です。人を理解する最も有効な方法は、人が話すことを聞くことです。

                           ラルフ・ニコルス」

ここに書かれたことは、学校教育において最も大切なことの一つであろうと思います。もっと人を理解しようという営みが学校で行われていれば、無駄なトラブルや、最悪の場合命にもかかわるような悲劇が減るものと思います。生徒指導は子ども理解から始まると言われますが、まさに子供たちの発言に耳を傾け、子供を理解することが出発点です。そのための手掛かりとして、この本はお薦めです。

 
 質問の大切さは度々このブログでも取り上げてきましたが、この本の「第4章 好奇心を示すオープンな質問をする」では、どのような質問を投げかければよいのかがわかりやすい事例を通して語られています。最初のページ(p.87)に次のような言葉が紹介されています。

「賢い人は正解を言わず、よい質問をする

                    クロード・レヴィ=ストロース」

 レヴィ=ストロースは有名な人類学者ですが、さすがに良い言葉を残したものです。

教師は授業の中で、問題・課題に対する解答を教える場面がもちろんあるわけですが、いつもそうであっては子供の思考力は育ちません。「よい質問」で子供たちにじっくりと考えさせ、調べたり、話し合ったりして、考えを深めさせる必要があるわけです。

 
質問にもクローズドな質問とオープンな質問の二つのタイプがあるわけですが、これまでの授業ではこれしか正解がないというクローズドな質問が主流だったわけですが、21世紀になってからはオープンな質問の大切さに光が当たるようになりました。

実際、社会の中では、答えのなかなか見つからない問いがたくさんあるわけですから、このような変化は当然のことでしょう。

 
たとえば、再生医療や遺伝子工学などでは、これまで神の領域と言われてきた事柄にまで人間の科学技術が及ぶようになりました。クローン人間なども決して夢ではなくなってきたわけです。ただ、技術的に可能ならば何をしてもよいのか、このあたりの生命倫理の問題は今後ますます複雑になるものと思います。また、原子力の問題。福島の事故は未だに終息していませんが、国策として「原子力発電技術の輸出」を掲げている現状があります。あの事故の教訓を完全に学び取ったのかどうかわからない状況で、次に踏み出していくという科学技術と経済社会の有り様をどう考えるのか。学校で教えられている「理科」という教科にはそのあたりまでが学びの範囲に入るべきだと改めて思う次第です。

 
 先日、次期学習指導要領改定案が発表されました。例の「アクティブ・ラーニング」という文言が「多義性がある言葉だ」として「主体的・対話的で深い学び」に言い換えられました。そして、新聞報道では特に「カリキュラム・マネジメント」に対して、にわかに注目が集まったとありました。

 
このブログでも、再三「カリキュラム・マネジメント」の重要性については触れてきましたが、特に「ひと・もの・お金」という条件整備が整わない環境での「カリキュラム・マネジメント」は成果を生み出すことが難しいものです。

「教育課程論」の第一人者である安彦忠彦氏(神奈川大学特別招聘教授)も「その種の活動が可能になるような条件整備がよほど伴わなければ、空回りして所期の成果を挙げることは難しい」(日本教育新聞・平成29年2月20日号記事)と述べています。同新聞の同じページには、埼玉県内の校長談が次のように紹介されています。
   

「当初は授業方法の大幅な見直しを求められると身構えたが、それを思うと、大きく変わる印象は受けない。正直、少し拍子抜けした感じだ。」

 
この感想をどう思われましたか? やはり、「アクティブ・ラーニング」という文言が消えてしまったので、こんな印象になってしまったのでしょうか。

しかし、よく考えると「深い学び」を追究するわけですから、これは大変な転換です。

しかも、「学習内容を減らさずに」です。内容を減らして、時間をかけて「深い学び」をやるというわけではないのです。そのためには、当然各学校での「カリキュラム・マネジメント」が必須だというわけです。

 
そのための創意工夫が必要です。「好奇心」という視点を組み込んでも面白いと思います。ある意味、「大変だけれども面白い」時代になったと考えてみたらどうでしょうか。

若い先生方にはぜひそんなInnovativeな気持ちをもって、日々の仕事に臨んでほしいと思います。

 

2017年1月15日日曜日

スターター(Starter)になろう


先日あるところで、文部科学省教科調査官の講演を聞く機会がありました。

テーマは次期学習指導要領がどう変わるかということでした。
    
その話を聞いて、文科省も相変わらず中途半端なことをしているなというのが、私の実感です。

授業観の転換という非常に大きな変革が要求されるアクティブ・ラーニングやコンピテンシーベースの考え方を本気でやりたいのならば、もっとそのあたりを本気で言わないと「学校現場には通じません」という感じです。

アクティブ・ラーニング一つとっても、学校現場の教師たちには何が届いているのか、非常に不安です。そして、当日の話で笑ってしまったのは、「アクティブ・ラーニング」という文言は新学習指導要領の中にはそれほど多くは入らないだろうという調査官の見通しでした。あくまで個人としての見解だと言いながらも、最前線で指導要領の文言作成に携わっている人ですから、それなりの信ぴょう性はあるでしょう。

これは、あまりにも「アクティブ・ラーニング」という言葉ばかりに光が当たりすぎてしまったことへの「反省的行動」なのでしょうか。マスコミもこの点ばかりに注目していますから、ちょっと困ったことになったなというのが文科省の本音でしょうか。

そうだとすると、先ほども述べたように、中途半端というか、一度上げたアドバルーンを慌てて下すというような滑稽な話です。本気で変えようとする意志があるのか、疑いたくもなります。

文科省自身が大きな転換だと言っているのですから、もっと現場をサポートするような手段を講じてほしいものです。これまでのように中央伝達講習会→都道府県→市町村教委→学校ではだめです。この発想から抜け出せない限り何も変わりません。

ICTがあるのだから、たとえば、ネットの中継やら、オンラインの研修が各学校あるいは個人レベルでできるようにするとか、「できることは何でもやる」くらいの気持ちがなければ、何も変わりません。

Innovationが必要なのです。

これまでの発想を捨てて、新時代に相応しい伝達やら研修のあり方を本気で考えないといけません。その旧来の慣習が捨てられなければ、学校は変わりません。文科省が手本を示さなければ現場は変わりません。

各学校から一人か二人ぐらいを教育センターに呼びつけて、悉皆研修をやってみてもだめだとつくづく思います。

国の動きはいずれにしても、まずは各学校で先生方一人一人が「スターター(Starter)」となって、できることから始めましょう。動き出さなければ何も変わりません。

2015年6月21日日曜日

知識社会の学校と教師


先週ここで紹介された「知識社会の学校と教師」を引き続き、話題にしたいと思います。

パートナーの指摘にもありましたが、訳文の読みにくさはかなりのものですが、それでも読む価値はある本です。

 第1章の「知識社会の発展」の項では、こんな文章があります。

 
「教育は労働者にとって鍵となる資質である。つまり、情報化された資本主義における新たな生産者とは、企業や国と地域の経済に最も価値ある貢献をもたらす知識の生成者たちであり情報処理の担い手なのである。」

    ICT教育もわが国の学校教育の現下の課題の一つですが、まさに世界共通の大きな課題でもあります。この文章の後に、シンガポールのこの方面での先進的な様子が語られていますが、この点でもわが国はかなり遅れを取っているようです。(もっとも国のサイズということも関係しているとは思いますが)

  第2章の「知識社会を乗り越える学校と教師」では、次のような箇所があります。

 
「知識経済の学校と教師は、標準テストの成績や、他者が描いたカリキュラムをただ単に実践するよりも、より高度なスキルと判断を必要とする。」
   
 まさに教師とは、「高度なスキルと判断」が必要とされる職業だと思います。専門職と呼ばれる所以です。「学び続けること」の大切さが求められる理由でもあります。

 この文のすぐ前に「知識経済を乗り越える学校と教師」には、次のものが必要だと書かれています。
   
 ・人格

 ・コミュニティ 

 ・安心

 ・包摂

 ・誠実さ

 ・地球市民としての自覚

 ・思いやり

 ・民主主義

 ・人間性と専門性の成熟

 
 このどれもが大切な項目でしょう。「誠実さ」「思いやり」はこの本でも紹介されているダニエル・ゴールマンのEQにも通じるものです。また、「研修」などでは養っていくことが難しいものでもあります。

 最後の「人間性と専門性の成熟」は、やはり、所属している学校を中心とした「学びの共同体」で、日々の協働を媒介として養われていくものでしょう。
 

2015年4月12日日曜日

思考と行動


今の政治の世界は、「翼賛体制」になりつつあるのではないか、という危機感の表明が知識人から時折上がります。

教育の世界はどうでしょうか。もちろん、教育も政治の影響をまともに受けている訳で、道徳の教科化、小中一貫の9年生の義務教育学校制度、教育委員長を廃止して教育長に一本化する新教育委員会制度と、枚挙の暇がないほど、次々と新しい施策が実行に移されています。教育委員会や学校は、考える暇もなく、ただ上から言われたことを実行する、仕方なくやらされる、そんな雰囲気になってきているのではと思います。

よく「粛々と」という文言を使う人がいますが、あれほど人を馬鹿にした言葉もありません。まさに、「本質的なことを考えるのではなく」「思考停止状態で」与えられた職責、仕事を黙々と「こなす」という状況を一番よく表現している言葉だと感じます。

「自分の頭で考えようとする」人が、仕事のやりづらい状況が今の教育委員会であり、学校ではないでしょうか。何も考えずに、上から言われたことだけをやっていればいい、ということであれば、創造的な仕事はできないでしょうし、創造性あふれた、心豊かな子どもたちを育てていくこともできないでしょう。

このままでは、日本人はどうやって生き延びていくのか、人材こそがこの国の唯一の支えであるのに、この状況を考えると、複雑な気持ちになります。


時折、仕事帰りに夕刊紙を買って帰りますが、この間読んだ記事で、劇作家の平田オリザさんがこう書いていました。
   
「これからは、レジスタンスの時代。ゲリラ戦で戦っていくしかありません。」

 ゲリラ戦は所詮一定の限界があると思いますが、要は一人一人が自分の持ち場で、精一杯仕事をしていく、そんな状況なのかも知れません。そして、一人二人と仲間を増やしていくこと。それが、学びの共同体に発展していく、そんな道筋を描きたいものです。

私は時々、『校長先生という仕事』(平凡社新書)と『効果10倍の学びの技法~シンプルな方法で学校が変わる』(PHP新書)を読み返すことにしています。この本は、それぞれ何回読んでも、またこうしてみようというやる気が湧いてくる本の一つなのです。

これらを読みながら、大学での前期の講義・セミナーの内容を、昨年とはまた少し違ったものにしていこうと考えているところです。

 

2015年1月4日日曜日

考えるということ


新年おめでとうございます。

 
   この休みの間に何冊かの本を読みましたが、その中の一冊に「路地裏の資本主義」(平川克美・角川SSC新書)があります。平川さんが書く文章はいつも納得してしまうものが多いのですが、今回もそうでした。

108ページに次のようなくだりがあります。
   
「わたしが職を得ている立教大学の吉岡知哉総長は、かつて大学院での卒業式の祝辞において、「大学は考える『技法』を習得する場所であり、『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為だ」と述べられました。・・・(中略)・・・教育をいじくり回したい人は、人間は教育によって改鋳できると考えているようです。」
   

 小・中・高校の学習指導要領が目指す「思考力・判断力」も、最終的にはこの『考える』という営みにつながるものだと思いますが、中教審や教育再生実行会議の人々からこのような話を聞くことはありません。要するに、今、この国の目指している教育の方向は、「英語ができて、自分の利益にのみ敏感で、他人を出し抜く技に長けた人間を養成する」もしくは「礼儀正しく、安い賃金でも文句も言わずに働く、愛国心に富んだ人間を養成する」ことと言ったら、言い過ぎでしょうか。

 
もう一か所引用させてもらいます。107ページの後半です。

 
「教育に問題があるとすれば、その教育のカリキュラムや、授業時間や、授業内容よりも、必要以上の競争原理を教室に持ち込んだために、いじめや自殺につながる問題が起きていることのほうを問題視すべきであるように思います。」

    わが国は同調圧力の強い社会です。そこに必要以上の競争原理が教育に持ちこまれことが「いじめ問題」をこれほどまでに深刻化させたと言えるのではないでしょうか。

  ここにきて、「競争原理」の圧力は弱まるどころか、「学力テスト」などの形で強まる一方です。しかも、「説明責任」の名のもとに、結果を公表する自治体も増加中です。中には、平均以上の結果を出した学校の校長名を公表するという自治体まで現れる始末で、こうなるともはや悲劇を通り越して、喜劇にすら見えてきます。

 
   教育者にできることは、子どもとともに、よりよい学びの姿を追究すること、これにつきるでしょう。そのための教師の仕事、研修のあり方、校内の組織など、「学びの共同体」にまつわる様々な課題について今年もまた考えていきたいと思います。

2014年8月24日日曜日

反転授業とは


最近、わが国でも注目され始めている教育手法の一つに「反転授業」があります。


これは、簡単に言えば、ビデオ授業を宿題として生徒は自宅で学習し、その後、授業で宿題の内容についてわからなかった点を確認したり、課題解決学習に取り組んだりするやり方が多いようです。従来の授業は「授業→宿題」であったのに対して、このやり方は「宿題→授業」と反対の順番になるので、反転授業と呼ばれるようになったとのことです。

 

最近、この授業にアメリカでも初期のところに取り組み始めたバーグマンとサムズの著書「Flip your classroom」の邦訳「反転授業」(上原裕美子 訳)が出版されました。

 

 この邦訳の表紙には、「基本を宿題で学んでから、授業で応用力を身につける」と書かれています。「基本を宿題で学ぶ」のは、教師が一方的に話すビデオ授業で学ぶことです。よいことばかりのようですが、課題もありそうです。

 

まず、課題の一つは、ビデオ授業を作るのに手間がかかるということです。このやり方が広まれば、地区の教師たちが共同で制作するとか、営利企業に任せるとか、いくつかの方策は考えられますが、ここは一つの問題点です。

次に、ビデオ授業のことはさておいても、問題は次の対面授業です。

基礎的なことはビデオで学んだとして、その補充や応用・発展をやることになるわけで、ここで、従来の一方通行の授業をやっていたのでは、その目的は達成できません。ワークショップ型授業のように子ども自身が問題を設定して、追究していくようなスタイルでなければ、応用・発展のいわゆる活用型授業の良さを活かすことはできないでしょう。つまり、このブログでも何回となく取り上げている教師の教え方が変わらなければ、この反転授業もうまくいかないでしょう。もちろん、繰り返しのドリル型学習という意味で使うことで、学力調査のようなペーパーテスト対策の授業としては効果があるのかもしれません。アメリカでこのやり方を利用している教師の中にも、もちろん統一テストの点数を上げる目的でやっている人も多いのではないかと思います。

 

反転授業のよさについて、この本の61ページにこんな記述があります。

「私たち教員は、学校で勉強を教えるだけではなく、生徒の背中を押したり、励ましたり、彼らの声に耳を傾けたり、進む方向を示したりする役割を担う。こうしたふれあいは人間関係という形を作って生じる。優れた教師は生徒と人間として絆を結ぶものではないだろうか。・・・(中略)・・・・・反転授業を始める前からそうした人間関係の構築に努めてきたが、反転授業にしたことで、さらに良好な関係を作れるようになった。」

その理由として、「教師と生徒のインタラクションが増えるからだ」と述べられています。

授業の中では、少なくとも一方通行のスタイルを止めたからですね。

しかし、インタラクションを増やすのは、何もビデオ授業を取り入れた反転スタイルでなくてもできることです。リーディングワークショップにしろ、ライティングワークショップ、サイエンスワークショップなどの授業でいくらでも実現できることです。

 

たしかに、ビデオ授業をタブレットPCで見たりすることで、ICT授業の先端を行くことに意味があるのかもしれませんが、要は子どもたちに「深く考えさせる授業」をどう作り上げていくが目標であり、それが本当に実現できるかどうかが最大の課題です。

 

ICTを活用することで、見た目の良さに気を取られて、本質を見失ってはいけないと思います。

 

2013年9月1日日曜日

教育の方向性


「自己責任」という言葉は、しばらく前の小泉政権時代から目立つようになった「新自由主義」によって、さまざまな局面で使用されるようになってきた。

 今、大学生の就職難が社会問題化しているが、これなどもしばらく前は、「ニート」とか「引きこもり」とか言われて、若者がすべて悪いような言われ方がなされていた。
 

 しかし、最近の「ブラック企業」に関するニュースを見ていると、どうも若者がふがいないというよりも、若年労働者を過労死寸前まで働かせる、一部の経営者のあり方にこそ問題があることがわかってきたように思う。

 新興のIT企業や飲食業においては、月の残業時間が200時間という信じられないレベルまで働かせているところがある。これではまともな生活ができるはずがない。
 

 また、年間数百名を大量に採用しているIT企業では、使える人間だけを選別するために、わざとパワハラを行い、精神的なダメージを与えて、自分から退職していくように仕向けていると言う。しかも、年々そのやり方が巧妙になって、「カウンセリング」といういかにも本人のためになるかのような仕組みを利用して、精神的に追い詰めていくそうである。しかも、今の仕事のことだけでなく、その人の生い立ちから、成長過程の話まで持ち出して、「だからお前はだめなんだ」という言い方をしていく。ひどい話である。しかし、こういうやり方で追い詰められていくと、今の若者は「自分が一番悪い」と自己反省して、自分からやめていく人が大半だそうである。
 

 今をときめく、アパレル関係のグローバル企業も実はブラック企業の一つと言われている。この会社には、名だたる大学から優秀な若者が入社してくるそうだが、かなりの割合で辞めていくそうである。(入社して3年以内に50%が離職)
 新入社員は、各店舗に配属されて、そこでまず会社のマニュアルを書き写すことを命じられるそうだ。今どき、手書きでなくてもコピーを取れば済む話なのだが、わざわざ手間のかかることをさせるのは、それで本人の会社への忠誠心を見るのだそうである。会社の言うことを聞く人間かどうかをそこでまず判別するわけである。要は会社の言うことを聞く人間だけが生き残れるということらしい。これがグローバル企業を標榜する会社である。「グローバル」とは何ぞやという話である。
 

 ここで、考えさせられるのは、わが国の学習指導要領である。最近の話題は、道徳教育の教科化、英語指導へのテコ入れ等々と、要するに、これから世界を相手に戦う忠実な会社人間を育成するのが、この国の教育の方向性らしい。

 そう言えば、数日前に、今年度の「全国学力・学習状況調査」の結果が報道されていた。

 各都道府県では、相も変わらず、全国平均より上だとか、下だとか。こんなもので学力向上のアカウンタビリティを果たしているつもりなのだろうか。
 

 こんなことを考えているときに、「理解する」ということについて考える機会があった。

やはり教育とは奥深いものだし、こんなやり方があるのかと初めて気づかされることがたくさんあった。やはり教育に関する「いい情報」がこの国には絶対的に不足している。

かつて、吉田さんが欧米との比は、100対1と言ったことは現在でもそのまま続いているし、さらに格差は広がっているようにも思える。

微々たる力ではあるが、人のつながりを活かして、前に進むしかない。

2013年8月18日日曜日

国の教育振興計画



この間、必要があって文部科学省のホームページを見ていたら、「第2期教育振興基本計画」が目に入りました。

 これがこの国の教育の基本指針です。

その各論概要に「8つのミッション」があります。

1番目が「生きる力の確実な育成」、相変わらず役人は「確実な」というフレーズが好きなようです。

その下に具体的な「アクション」があるのですが、「言語活動の充実」「ICTの活用などによる協働型・双方向型学習の推進」と続きます。

たしかに、「言語活動の充実」はわかりますが、それよりも「学習者主体の学び」が確立されることが大前提でしょう。「学びを第一とする組織」を作ることがまず必要です。

前回のテーマにあった「研修や研究」が機能していない現状を変えることから始めることもここを突破していくために必要でしょう。

さきほどの計画の「アクション」にも、「教員の資質能力の向上」として、「養成・採用・研修」の一体的改革を謳っていますが、現状をどう変えていくというのでしょうか。官制のお仕着せ研修は前回ブログの指摘のようにほとんど機能していないと言えるでしょう。また、校内研修の「研究授業/授業研究」スタイルのやり方も、行き詰っているように思います。初任者レベルならともかく、ある程度経験を経た教師にとっては回を重ねても、それ以上得るものがなくなっているように思います。むしろ、単元レベル、あるいは小単元レベルの指導プランを開発していくことのほうが得るものが多いと感じています。

そして、このような話題を日常的に職員室で語り合えるような職場の人間関係、雰囲気が最も求められているのかもしれません。以前に比べれば校内・校外の研修の機会は多くなっているのでしょうが、やはり大切なのは自分が所属している学校、共同体の中でのコミュニティとしてのあり様です。

そんな共同体づくりにそれぞれのレベルでかかわっていくことでしか、この国の教育のあり方は少しも変わらないのではと思います。

2012年11月11日日曜日

小中一貫教育を考える


ここ数年、小中一貫教育を施策として取り入れる自治体が全国的に増えています。

私の勤務する地区でも、今年から市内全校での本格実施となりました。

 

まだ一年経過していませんので、全体的な評価はできませんが、ここまでの感想を述べます。

 メリットは、小中学校教員が相互に訪問する機会が増えて、お互いにどのような教育をやっているのかが、以前よりはよく見えるようになったということです。これまでは、確かにすぐ傍にある異校種の学校にどんな教師がいるのか、どんな教育活動をしているのかはほとんど見えてきませんでした。そのあたりを自覚して、小中連携を意図的に取り入れてきた学校(地区)は素晴らしいと思います。

 また、小中の9年間を一体のものとしてカリキュラムを考えたり、「教育の質保証」を考えたりすることは大切なことです。


 この小中一貫教育では、不登校対策等もその目的に含まれることが多いのですが、そこはそんなに簡単な話ではないと思います。「中1ギャップ」とよく言いますが、小学校と中学校のシステムの違いや学習内容などがその要因に挙げられています。確かに、教科担任制や定期試験など、中学校に入学して初めて出会うものがいろいろあります。ただ、それらによって不登校が引き起こされているとするのは、一面的な感じがあります。


 ここ数年の経験では、次のような傾向が見られます。

小学校時代に欠席がちの生徒は、中学校に入学して、夏休み前まではその多くがなんとかこれを機会にがんばろうという気持ちで、ほとんど休まずに来ることがあります。

しかし、夏休みを過ぎると、休みがちになり、そのうちほとんど欠席する傾向があります。これは、一つにはやはり学力問題が深く関係していると思います。小学校時代に欠席がちの生徒は学力面でも他の生徒よりも到達度が低く、授業そのものが理解できないということが多く見られます。やはり、授業がわからないというのは、だれにとっても苦痛なことです。きっかけは、友人との人間関係のつまずきだったりすることがありますが、その本当の要因は「学力問題」ではないかと考えます。

そう考えると、不登校生徒を減らすためには、少なくとも小学校卒業までに習得すべき学習内容をできる限り「おおむね満足」のレベルに引き上げることが重要です。そうだとすれば、小中一貫教育も、そのあたりに人もお金もかけるような方策が一番効果的と言うことになります。中学校の教員がたまに小学校に出かけて行き、授業をやってもそれで「学力向上」という成果はあまり期待できないということです。

中学校教員が小学校の学力向上に協力するという理念には大賛成ですが、それをやるには今の中学校は忙しすぎます。いろいろな○○教育が様々なところから要請されて、それをこなしていくだけでも大変な労力です。それにプラスして、「部活動」です。この部活動が今のように教員のボランティアによって支えられているにも拘わらず、そのことが正当に評価されていない現状は、いかにも日本的なことです。

そのあたりの整理がなされるには、まだしばらく時間がかかるでしょう。

それまでは授業以外の様々なことはできるだけ取捨選択して、できるだけ授業に優先して職員が向かい合えるような体制作りを管理職がやる必要があります。


今回のテーマに関連するようなご意見・ご質問など、pro.workshop@gmail.comにぜひお寄せください。

2011年9月3日土曜日

小中一貫教育

 ここ数年、小中一貫教育を取り入れる自治体が増えている。
 もちろん、少子化による学校統廃合という観点からの導入も少なからずあるようだ。
 それ以外の導入理由は、不登校、いじめが中学1年になると急増するという、いわゆる中1ギャップ解消の切り札としての期待であろう。
 つまり、学校文化の異なる小学校と中学校の接続を滑らかにしようというねらいである。ただ、これまでにも「小中連携」の活動はあった。そのあたりの違いが明確にできるのかどうか。そこを意識してのことだと思われるが、小中教員による交流授業(小学校教員が中学校に出向き、中学校教員が小学校に行き授業をする)を取り入れる自治体が多いようだ。
 ただ、これは当該小中学校の教員にとっては大きな負担である。
 本務である自分の勤務校を離れて、交流先の学校に出かけていき、それでお互いの学力はどうなるのか、という心配は当然である。そこのところをどううまくやっていくのか、ここが実施する自治体、教育委員会の腕の見せどころかと思う。もっとも、授業改善につながらない一貫教育は最初からやらない方がいいに決まっているのだ。