2026年10月11日日曜日

教室には、教師の言うことを聞かない子どもが必要ですか? 従順さと民主的な学びの関係

授業中、「どうしてこの方法で解かなければいけないの? もうできるんだから、自由にやってもいいじゃん」と尋ねる子がいます。修学旅行や学校行事が詰まっているときに、「ハロウィンパーティーをやりたい!」と訴える子もいます。教師がその意図や価値を説明しても、簡単には納得してくれません。忙しいときほど、私たちは「まずは言われた通りにやってよ」と答えたくなります。教室を運営する立場からすれば、もっともな反応でしょう。しかし、その子が発した問いや意見を、私たちはどのように受け取っているのでしょうか。

 

学校では、時間を守り、指示を聞き、友だちと協力する子が「よい子」と評価されやすいもの。集団生活を送る以上、それらは必要なことです。しかし、教師の意図を素早く理解して動けることと、自分の頭で考えて判断できることは同じではありません。自分で考え、判断できる自律的な人を育てたいと願いながら、前者ばかりに価値を認めてはいないでしょうか。

 

「子どもの権利条約」第12条は、子どもが自分に関わる事柄について自由に意見を表明する権利を定め、「児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする」としています★。意見を聞けば、必ず採用しなければならないという意味ではありません。大切なのは、その意見を一人の人間の考えとして受け止め、判断の材料にすることです。

 

★日本ユニセフ協会 (https://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_rig_all.html)

 

ここでいう「教師の言うことを聞かない子」とは、教師の説明を鵜呑みにせず、「なぜ?」と問い、納得できなければ異議を唱えられる子のことです。もちろん、教師に従う子が自分で考えていないということではありません。大切なのは、子どもの判断が教師の期待と一致しなかったとき、その声にどこまで耳を傾けられるかということです。

 

こうした子どもを育てることは、決して簡単ではありません。むしろ、教師の権力と子どもの主体性をどのように両立させるのかは、民主的な教室をつくろうとする教師が、常に向き合わなければならない難しさだと思います。

 

子どもの主張を何でも受け入れてしまえば、声の大きい子の意見ばかりが通り、集団としての学びが成立しなくなることもあります。一方で、教師が力で押し切れば、子どもは言うことを聞くようになるかもしれませんが、それでは自分で考え、判断し、行動する力を育てることは難しいでしょう。

 

ただし、教師が権限を持つこと自体が問題なのではありません。その力を、子どもを従わせるために使うのか、それとも子どもが自分で考え、他者と共に生きていくことを支えるために使うのか。その違いが問われているのだと思います。

 

算数の授業で「もう分かっているから、みんなと同じことをしたくない」という子がたまにいます。その子の思いは大切にしたいものです。一方で、友だちと考えを伝え合うことによって生まれる学びもあります。教師の考えを押しつけるのでも、その子の希望をそのまま受け入れるのでもなく、互いが大切にしていることを伝え合いながら、学び方を考えていく。価値観をすり合わせていくには、時間がかかります。

 

そして、自分の考えを大切にすることは、自分の主張を押し通すことではありません。ハロウィンパーティーをやりたい子がいても、別のことをしたい子や、行事が続いて疲れている子もいるでしょう。自分の願いが尊重されるのと同じように、他者の願いも尊重されなければなりません。教師の言葉を鵜呑みにしないことと同じくらい、自分の考えも絶対ではないと知ることが、民主的な学びには欠かせないのです。

 

もちろん、こうした話し合いが、絵に描いたように美しく進むわけではありません。互いに不満を抱き、意見がぶつかり合い、何度話しても納得できないこともあります。それでも、諦めずに対話を重ね、相手が何を大切にしているのかを理解しようとする。その過程で、少しずつ互いの考えが変わったり、折り合いのつくところが見つかったりします。

 

一方、最後まで納得できないこともあるでしょう。民主的な話し合いとは、必ずしも全員が同じ考えにたどり着くことではありません。異なる意見を持ち続けながらも、相手を排除せず、共に生活していくことにも大切な意味があるはずです。

 

私は、こうした葛藤を抱えながら、時間をかけて対話を続ける過程そのものに、民主的な教育の価値があると考えています。

 

教育哲学者のガート・ビースタは、教育には教師の意図通りにならないという不確かさが伴うことを指摘しています。ビースタは、「教育は常に、たとえ善意に基づいていても、子どもには力の行使として現れます」(私訳)と述べています。教師がどれほど善意をもって働きかけても、そこには力の関係が存在します。そして、子どもはその働きかけを、教師が期待した通りに受け取るとは限りません。

 

ビースタが重視する「主体化(subjectification)」とは、単に子どもが自分の意見を主張できるようになることではなく、自分とは異なる他者や、思い通りにならない現実と出会い、その中で自分の自由をどのように使うのかという問題です★★。教師の意図に従わないことも、反対に自分の主張を押し通すことも、それだけで主体的だとは言えません。自分の考えを持ちながら、他者の存在によって自分の考えが問い直されることにも、教育の重要な意味があるのです。

 

★★PLC便り(2025年12月14日)「教育は予定調和ではない! 主体が立ち上がるとき、教室は揺れる 〜高学年を担任する『やりにくさ』から考える教育の意味〜」

https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/12/blog-post.html

 

 

だからこそ、民主的な教室づくりには対話が欠かせないのです。それは、子どもの意見を何でも認めることではありません。教師も自分の考えを伝え、必要なときには譲れない線を示します。同時に、子どもの主張によって、教師自身の考えが変わることもあるはずです。また、声を上げる子だけでなく、言葉にできない子や、沈黙している子の思いにも目を向けなければなりません。

 

そして、この問題は職員室にも当てはまってしまいます。「例年通りだから」という言葉で、新しい提案や疑問を退けてはいないでしょうか。もちろん、前例を大切にすることにも意味があります。しかし、それが異なる意見に耳を傾けない理由になってしまっては、対話は生まれません。子どもたちに自分の考えを伝え、他者と考え合うことを求めるのであれば、まず私たち教師自身が、異なる意見を安心して伝え合える職員室をつくる必要があるのです。

 

民主的な教室は、教師が判断を放棄する教室でも、全員がいつも納得している教室でもありません。異なる考えや不満を力で押さえ込まず、葛藤を抱えながらも、互いに理解しようと対話を重ねる教室です。ときには最後まで納得できないこともあるでしょう。それでも、異なる考えを持つ相手と共に生きていくこと。その難しさを子どもたちと一緒に引き受けていくことに、民主的な教育の価値があるはずです。

 

私たちが育てたいのは、いつでも教師に逆らう子ではありません。教師の言葉を鵜呑みにせず、自分の頭で考え、同時に自分の考えも絶対ではないと知る子どもです。そして、他者との違いに向き合いながら、共に生きる道を探そうとする子どもです。そのような子どもが安心して存在できる学校でありたいと思います。

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