2018年12月28日金曜日

メタ認知について

 先週の話題であった「メタ認知」について私も考えてみたいと思います。

「小学校学習指導要領解説・総則」「第3章 教育課程の編成及び実施」においても、次のような文言があります。

 児童一人一人がよりよい社会や幸福な人生を切り拓 ひらいていくためには,主体的に学習に取り組む態度も含めた学びに向かう力や,自己の感情や行動を統制する力,よりよい生活や人間関係を自主的に形成する態度等が必要となる。これらは,自分の思考や行動を客観的に把握し認識する,いわゆる「メタ認知」に関わる力を含むものである。こうした力は,社会や生活の中で児童が様々な困難に直面する可能性を低くしたり,直面した困難への対処方法を見いだしたりできるようにすることにつながる重要な力である。(下線は筆者による)

 「メタ認知」とは自分のことを一つ高い視点から客観視するという感じだと思っています。 「メタ」とは「〜を超えた」と言う意味をもつ言葉であり、自分の置かれた状況や自分の思考や感情について、もう一人の自分がそれを冷静にモニタリングしているイメージのように思います。何かを学んでいる状況で、「ここのところはこんなふうに解釈してみた」「この部分はまだすっきりと理解できていない」など、自分の学びを振り返ることができることがメタ認知能力です。

 メタ認知能力があると、何かトラブルが発生した時などでも、それに巻き込まれてパニックに陥ることなく、直面している課題に対して冷静に適切な判断を下せるようになります。学習指導要領にも記載のあるこの能力にも目を向けていきたいものです。評価の問題はこのブログでも何回も取り上げていますが、形成的評価を今まで以上に充実させていくためにも、子ども自身に学習改善を進める力をつけるという意味で、メタ認知能力の育成は大切なものであると考えます。

『新しい教育評価入門』(西岡加名恵ほか編/有斐閣2015)によると次のような一文があります。(72ページ)

子どもたち同士による相互評価や教師との対話によって評価基準を共有することが、メタ認知能力を育てていくうえで有効であると考えられるようになってきている。

このような学習活動を成立させるためには、学習課題が選択できたり、子どもたちの自主的、自発的な学習が促進されたりする必要があります。どの教科においても、自ら問題を見いだし,解決するための方法を考え,実践し,その結果を評価・改善するという機会が求められます。そのような授業での課題づくりや課題発見のために、自校の学校図書館や地域にある社会教育施設(地域の図書館や博物館,美術館,劇場,音楽堂等の施設など)を活用することが従来以上に大切になると思います。それらの施設が近隣になければ、今はネット社会ですから、様々なIT機器を利用して情報収集も可能です。まさに、このブログのパートナーが常々書いている次の言葉が重要です。

Whatever It Takes !』 「やれることは何でもやる」

1年間、このブログを読んでいただき誠にありがとうございました。
また、来年も引き続きお読みいただければ幸いです。

 

2018年12月23日日曜日

自立した学び手に育てるためにできること


あなたは、生徒たちを自立した学び手(考え手、問題解決者、探究者)に育てるために何をしていますか?
教師がいなくても、教科書がなくても、学校がなくても、学び続けられるようにするために、していることです。

いろいろあり得ますが、今日取り上げるのは「メタ認知」です。
最近聞くことが増えている言葉の一つだと思いますが、「メタ認知」についておさらいをしましょう。
メタ認知とは、自分が考えていることについて考えられることです。
自分は何を学ぶべきなのかや、覚えるべきなのかではなく、
どうしたら自分はそれを一番よく学ぶことができるのか、を明らかにすることです。
自立した学び手になるためには欠かせないスキルと言えます。

でも、それって教えることができるのか、という疑問がわくと思います。
できるのです!!

どうやって?
各自が一番よく学べる時はどんなときかを考えてもらうことで。
●具体的には、次のような7つの質問をすることで、
・最初に何をしたらいいのか?
・まだモヤモヤしていることは何か?
・自分が学んだことを説明できるか?
・助けを求めるべきだったか?
・なぜ、この答えを間違えたのか?
・これは別な状況に応用できるか?
・次にもっとうまくやるにはどうしたらいいか?

(もちろん、7つを一度に全部尋ねる必要はありません。)
こうした質問は、次にする時の助けになり、自分の強みや弱みを理解する(振り返ること)ことで、自分の学び方を改善することができます。

自分の思考/学びをクリティカルに分析し(単に「批判的」に分析するのではありません。何は大切で、何は大切でないのかを見極められるようにするのです!)、それに基づいてよりよい選択/行動ができるようになります。

これを繰り返すことで、効果的な準備/計画、モニタリング(観察/測定)、振り返り/自己評価ができる力を磨くことができるようになっていきます。

●もう一つ参考になるアプローチとして(上記の質問とかぶるところもありますが)、
・すべては分かっていないことを認める
・挑戦しがいがある、現実的な目標を設定する
・取り組みはじめる前に、準備/計画をしっかりする
・自分がよりよい選択をするために、他の人のフィードバックを求める
・提供されたフィードバックをうまく活用する
・自分のパフォーマンスをモニターする(最後で苦しまないように!)
・ジャーナルを付ける
・いい質問を自分自身に投げかける(自問自答する) → 上記の7つの質問など

以上をリストアップして気づいたのは、来年2月に発売予定の『教科書では学べない数学的思考――「ウ~ン!」と「アハ!」から学ぶ』とまったく同じだということです。
私たちは、長年(少なくとも10年ぐらい、私の場合は13年も)算数・数学を学びましたが、残念ながら「数学的思考力」は身につきません。していたのは、ずっと「正解当てっこゲーム」でした。単に、正解を出せればいいのと、数学的思考を身につけることは、まったくの別物です! それではまずいと、(55歳を過ぎて)一念発起して数学的思考力が身につく本を探して見つけたのが、上記の本だったというわけです。
ちなみに、数学的思考力=問題解決能力なので、この本は数学的問題だけでなく、世の中にあるすべての問題を扱う際にも役立ちます。(算数・数学で、そんなふうに教えてもらったこと、ありますか?) 目標設定・実現能力を身につけることも含めて、上記の8つのことが不可欠なのですが、算数・数学の授業でこれらはほとんど丸ごと抜け落ちています。

●話を、「メタ認知」に戻します。その他の重要なポイントとして、以下の点も覚えておいてください。
・授業(作業)中に、しばしの時間(1~2分)をとって振り返る。
・学ぶことと正解を得ることの違いを強調する。 → これは、成長マインドセットと固定マインドセットの違いに発展します。①浅い(表面的で、受け身的な)学びか、それとも②深い学びをつくり出せるかの分かれ目が、メタ認知とも言えます。前者の特徴は、「クラスに遅刻しない」「教師の話しをよく聴く」「板書をノートに取る」「教科書をよく読む」「ノートを見直す」などに表されます。それに対して後者は、「自分の質問を出す」「正解を見るために自分なりの答えを考えてみる」「ノートは閉じて、どれだけ覚えているかテストする」「分かりにくいところは友だちか先生に尋ねる」などの行動に表れます。
・明確かつ意図的に行う。
・やりすぎない。


参考(資料):『増補版「考える力」はこうしてつける』
       『教科書では学べない数学的思考――「ウ~ン!」と「アハ!」から学ぶ』
       『読み聞かせは魔法!』の「考え聞かせ」の章

2018年12月15日土曜日

かちこち学校スタンダードに踊らされない、効果的なしなやか学校スタンダードとは

昨今、学校スタンダードへの批判を目にするようになりました。学校スタンダードとは、全校あげて取り組むべき学校の具体的なスタンダード(基準)です。子ども達が守るべき約束の形式で示されたりもします。どの教室においても教師が同じ指導を徹底できるように、しっかりと子ども達を管理するように示された、いわば学校ルールのようなものです。

下記はある小学校の学校スタンダードです。
・いすにしっかり腰掛け、 背筋を伸ばす
・教室移動は並んで歩き 防災ずきんを持参する★
・日直や係の号令で始まりと終わりを明確にする
・晴れた日はできる限り外遊びをする 

なにか非常に違和感というか息苦しさをもちませんか?

一方、こちらは別の教育委員会が出している小学校の授業スタンダードです。
・発言するときのルールが徹底されている。(挙手、返事、起立) 
・「単元名」、「学習のめあて」を明示している。 
・構造的な板書をしている。 
・「学習のめあて」が達成できたか、児童・生徒の振り返り(自己評価)の場を設定している。 
・児童・生徒を机間指導で評価し、到達度も把握している。 
授業そのものに関することも多くなりましたがまだまだです。★★

こういったガイドラインを一律にそろえることで、だれもがよい授業ができると思っているのでしたら、管理職や教育委員会の考えることの放棄としてか言いようがありません。

最初に結論を述べておくと、学校スタンダードは必要です。それがなければ、学級王国だらけで、学校としての体をなしません。では、なぜこのような学校スタンダードが求められるのでしょうか。昨今、若年層の教師が増加しはじめています。学習経験の浅い教師が学校現場で困らぬよう、先輩教師たちから親心としての学校スタンダードなのでしょう。

経験の浅い教師と熟練の教師では、学習経験の浅い教員が1年かけて教えている横で、熟練の教師はその半年分で学習効果をあげてしまう歴然の差があります。保護者から、学級によって差が生まれないように求められることも多々ありますが、学校スタンダードだけでは学習の差を埋めることはできません。

一方、学校スタンダードをそつなく流せるようになった教師は、指導主事からも称賛されます。それもそのはず、教育委員会がつくった学校スタンダードですから。それさえをやっておけばよいと、教師はその評価に安住してしまいます。授業の意図を考えようとしなくなり、本質や教育理念を考えようともしない「思考停止の管理職や指導主事に忖度する教師」が育ちはじめています。教師の持つ主体性を消し去ってしてしまう機能を持つスタンダード、これは考えることの放棄といった大問題です。まさにかちこちマインドセットを育成してしまう能力無視のかちこち学校スタンダードです。★★★

学校全体を即席にチームとしてみせるためには、上記のようなルールを委員会、管理職より下ろすのがてっとりばやく、また学校がチームとして整っているように見せるには効果覿面です。端から見ると、そろっているように見えますし、なによりも管理職は一時的にはそのコントロール感から安心できます。

ここで抜け落ちているのは、ルールが目的化されてしまい、そこで生で学んでいる教師や子どもの視点が抜け落ちてしまっていることです。さらに問題な点は、このような学校スタンダードが現場の教員たちには歓迎されてはおらず、子どももその時の様子に寄り添いづらくしています。もちろん子どもも歓迎してはいません。

しかし、本当に上記の学校スタンダードのような学習のめあてと、授業のまとめを板書することで、子ども達に何が育っているのでしょうか。教師が板書を書くのを口を開けて待っている子を育てていませんか。きれいにノートへ写せた子どもを褒めてしまってはいませんか。それらは子どもが自分で考えた言葉なのでしょうか。形式的に、指導書を丸写しとなっていませんか。子ども達が高学年になってくれば、そのような教師からの一方的な学校スタンダードをなぞったような授業では、学習の意味を見い出せない子がでてきます。子どもは本来、型にはまりたいのではありません。自分でよりよく考えたいのです。



学校全体で大事にしたいスタンダードとは一体なんでしょうか。細かいスタンダードづくりで外堀を埋めるだけで終わらせず、エビデンスに基づいた学習★★★★に最も効果的な本丸とは一体なんなのでしょうか。

それは、①「学習の意図が明確であること」②「望まれた学習が達成されたかどうかがわかる達成基準があること」であり、③「教師集団がそれについて話し合い続けていること」です。

上記の学校スタンダードにある「学習のめあて」を明示だけではおしいのです。これだけでは、学習者がどうしたらそれを達成できたのか、明確な達成基準を共有してはじめて、ふりかえりに学習者の自己評価が活きてきます。学習の意図、そして達成基準を明確にしない授業では、とりあえずパスをもらってドリブルし続けるサッカーのようなものです。目指すべきゴールもそのレベルも見当たりません。まず、教師自身が教えることをはっきり分かっていなければ、すぐれた評価を開発できないのです。学習の意図(アウトカム)がはっきりしていることは、何をどう教え、学習者がどうなっていってほしいのか、形成的評価の中核なのです。

ライティングワークショップやリーディングワークショップといったワークショップ授業のもつ難しさとは、こういった学習の意図や達成基準を各自でデザインしていくところにあります。教科書のみを頼りに学習している限りは安心ですが、自分で考え授業をつくっていこうとする「しなやかな思考」生まれません。こういった、学習意図や評価を対話しながら、教師集団で練り上げていくのです。

学習の意図、達成基準づくりのポイントとして以下の6点が挙げられます。これらを教員たち同士でよく話し合ってみてください。これらは委員会が提示してる授業のスタンだー痔オとは真逆です!★★★★

①基本的な知識・技能といった浅い理解と、関連や思考を促す深い理解、自分の学びを俯瞰してみるメタ認知をバランスよく取り入れているか?
②教えるべきカリキュラムに適合しているか?
③短期間で成し遂げることなのか?長期間かけて身につけることなのか?
④具体的にやる活動やその難易度を明らかにし、学習者にとって簡単すぎで退屈にならないか、かつ難し過ぎてモチベーションがわかないものになっていないか?
⑤フィードバックを効果的に用いて、形成的に支援し続けられるか?
⑥学んでほしいことを学習者に分かるように伝えているか?

授業では、この学習の意図と達成基準を繰り返し共有していきます。授業の終わりや単元の終わりには、学習の意図の確認し、どれだけ達成できたのか学習者自身が理解できるようにしていきます。これはとても効果的な教え方の一つです。そのふりかえりを学習ジャーナルに継続的に学習者が書き続けていきます。

また、子ども達の学習は決して直線的ではなく、当初、意図していなかった結果を認識させられることもしばしば。そこでは、学習の計画をつくりかえることも重要です。みんなペースやレディネスが違うからです。個に寄り添ったカンファランスアプローチが必要となってくるのです。



子ども達を、規律で縛り続け、時計の針ばかりを見続けさせる退屈な授業でよいのでしょうか? 授業の意図を明確にすること。そしてそれを見とどける評価基準をも明らかにし、学習者と共有していくこと。この授業デザインをもって、学校スタンダードをつくり始めてみるのはどうでしょうか?


★なんのための防災ずきん?

★★ちなみにこのような情報は、学校のホームページに記載されているため、ネットでさがせばいくらでも見つけられます。
http://www.sagamihara-koyo-e.ed.jp/H27koyo_standard.pdf
https://www.city.tachikawa.lg.jp/shido/documents/tachikawa_00.pdf

★★★
かちこちマインドセットとしなやかマインドセットについては、以下の本が参考になります。2冊目の方は、これまで訳されていなかった海外事例の章も新たに訳されています。
『「やればできる!」の研究―能力を開花させるマインドセットの力』キャロル S.ドゥエック (著), 今西 康子 (翻訳) 2008
『マインドセット「やればできる! 」の研究』キャロル・S・ドゥエック  (著), 今西康子 (翻訳)2016

★★★★
「エビデンスに基づく教育」(Evidence-based Education)とは,教育研究によって政策や実践を実証的に裏づけることを意味する言葉。

★★★★★
『学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編◆』原田信之 (著), ジョン・ハッテイ (著)の「5章 授業を始める」を参考にまとめたものです。








2018年12月9日日曜日

あなたは平等派? それとも公正派?

equality equity」で検索すると、この違いを見事に表しているたくさんのイラストを見ることができます。
そのうちの一つを下に貼り付けます。

日本の教育は「平等(equality)」に扱うことを、殊の外、重視していますが、それでは、右側の子たちはいつまでたっても、野球を観戦することすらできない状況に置かれているのです(それで、教育をしていると言えるでしょうか?!)

それに対して、「公平ないし公正(equity)」な対応が右側のイラストです。
これこそが個々のニーズに応じた対応と言えるのではないでしょうか?
まさに、キャロル・トムリンソン著の『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』と『一人ひとりをいかす評価』や、『オープニングマインド――子どもの心をひらく授業』のアプローチです。
踏み台は、個々の子どもが必要としているニーズの量を表しており、それに対応すべき教師の量を表しているとも言えます。

一番左側の子(人?)に踏み台を提供していないのは、どのように解釈できるでしょうか? 
背が高い子どもはほったらかしにしておいていいのかというと、そうではありません。背の高い子がさらに伸びるサポートには気を配ります。(最大限に伸びれるように、「楽しく、意味を感じられ、熱中できる」取り組みができるようにします。)


なお、上記の画像には、reality(現実)やliberation(解放)という形で、オリジナルのイラストとは異なるバージョンまで提示してくれています。
この辺も、アメリカ人のユーモア(ブラック・ユーモア?)です。
平等の名の下に努力している結果、実際につくり出している結果は「現実」なのですから。
自分たちのしていることを振り返るには、「現実」がないと本当は気づけないかもしれません。
さらに、「解放」は、教師の支援や枠組みからの解放を意味します。

このように、教師には(常に)選択肢があります。
あなたは、どれを選びますか?

なお、最後の「解放」はひょっとしたら、授業や学校という枠組み自体からの解放すら意味するかもしれません。
でも、ご心配なく、みんなまだ野球場にはいますから(各自が、サッカー場、バレーのコート、水泳のプール、将棋の対戦に好き勝手に行っているわけではありません)!

日本人は、公平/公正のセンスが弱いだけでなく、ユーモアのセンスも残念ながら乏しいです! 多様性が乏しいのが原因でしょうか? この辺が、社会が膠着しやすい要因の一つのような気がします。学校教育の膠着度は、目を覆いたくなるレベルです! その膠着状況から抜け出す最善の方法の一つが、選択肢を意識することだと思います。選択肢が存在しなければ、膠着ないし固定は約束されていますが、選択できる状態であれば、変化や改善が期待できるからです。(このことは、授業を受けている生徒たちにも言えます。ぜひ選択を提供してあげてください!)


2018年12月2日日曜日

どうすればいい!危機にある教師の自主的勉強会

私にとって、自主的な勉強会(様々な呼び名があるようで、英語では、teacher support groups, study groups, teacher networks, learning circlelsなどと呼ばれているようです) は、気の合う仲間で集まって、輪読会をしたり、授業について語り合ったり、時に、先輩と衝突したり、とても刺激的で、楽しみのある場所でした。公的な研修と違い、自分たちでやりたいことを選び、自分たちで運営していく。とてもスリリングで、いつも集まりの日が待ち遠しかったことを記憶しています。

ここ数年、教員が主体的に集まる勉強会やサークルが成立しずらくなっていると感じます。皆さんの周りではどうでしょうか?業務の多忙化により精神的な余裕がなくなっていることや、週末の部活動の影響(これは改善の途上にあると言えるかもしれません)、管理主義の強まりや義務的な研修の増加(それによる自主的な研修を避ける傾向)など、様々な要因が背景にあると思われます。働き方改革が叫ばれる中で、週末に集まるなどもってのほかと思っている人もいるかもしれません(自分で選んで集まっているのだから関係ないと思うのですが)。職場を離れてまでも、仕事について熱く語り合うといったことは、時代遅れになってしまったのでしょうか。

自主的(ボランタリー)な集まりであるがゆえの、良さも限界もあると思いますが、今一度、そのような活動の価値を再認識する必要があるのではないかと思います。与えられる研修、与えられる業務だけで、満足していいのか。Richard and Farrel(2005)によれば、このような主体的な集まりは、プロの教師コミュニティーとして機能するようになり、教師としての知識や探究の妥当性を検証する場を提供してれると述べています(p.51)。

うまく行くグループもありますし、途中で空中分解してしまうグループもあります。教師の自主的な勉強会は、どうつくり、どう運営していけばいいのか、Richard and Farrel(2005)を参考に、整理してみます(pp.52-67, 同書では teacher support groupと呼んでいます)。

◉目的や意義
・授業や指導計画の検証、振り返り
・教材開発
・新しい指導法を試す。
・授業を相互観察する。(ビデオ視聴含む)
・雑誌などに共同で投稿する。
・研究プロジェクトを実施する。
・セミナーやワークショップを開催する。
・気づきが生まれる。
・仕事への動機付けが高まる、互いにエンパワーされる。
・協働を生む(教師は教室で一人で働く時間が大半)。
・成果を学校に還元することで、学校改革のイニシアティブを取る。
・成果は生徒に還元される。*  

◉効果的なグループ活動のために
☆グループサイズ
5人から8人が理想的。これを超えると、聞くだけ、参加するだけのメンバーが生まれる。大人数になったら、役割別の小グループをつくる方が良い。

☆役割
リーダーを置くかどうかはグループ次第だが、ファシリテータ役がいる方が、うまくいくことが多い。**

☆グループの目標
グループができた時は、一般的な目標しかない場合が多い。初期の集まりで、全員で話し合い、より明確で具体的な目標を設定する。メンバーが知り合って間もないこともあるので、最初は比較的短期間で達成しやすい目標を設定して取り組むことが成功の秘訣。その後、グループの取り組みを検証し、新しい、長期的な目標設定をする。

☆うまくいかなくなった時
メンバーのコミットメントがあり、良い聞き手であろうとする姿勢をもっているうちは、問題の解決は比較的容易。以下のようなことに留意したい:

1)不平不満(特に個人に対する)に時間を費やさない。目標や成果に時間を費やす。
2)支援的フィードバックを心がける。
3)セラピーが目的ではない(治療的行為は専門家に任せるべき)。
4)おしゃべりの時間ではなく、対話の時間であると捉えておく。
5)実践的であるべき(新しい指導法について議論するだけでなく、実際に試してみることを重視する。)。
6)課題解決に取り組む仲間に対する支援や激励を重視する。
 
忙しくても、私用があっても、なんとかやりくりをして、必ず駆けつけたい、そのような学びの場、学ぶ仲間を持ちたいと思いませんか。


*グループの活動自体が目的化してしまい、これを忘れがちなることはよく起こるものです。私たちのミッションは何だったのか、常に振り返りながら進めることが必要だと言えます。また、この観点で、今ある研修を見直してみる必要もありそうです。

**ファシリテータへの依存は、子どもの教師への依存と同じになってしまうので、ファシリテータなしの方が良いという考え方もあるようです。ウイギンスさんの『最高の授業』で紹介されているスパイダー討論では、教師の介入を否定しています。

[参考文献]
Jack Richards and Thomas Farrell (2005) Professional Development for Language Teachers, Cambridge.