2025年7月20日日曜日

『“しない”が子どもの自力を伸ばす』を読んで

 本を読んだ高校の英語の先生Tさん(広島県)が感想を送ってくれたので紹介します。 

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教師として、生徒を「怒る」「叱る」ことは必要だと思っていました。たとえば、生徒が人を傷つけるようなことを言ったとき。何度注意しても授業中におしゃべりを続けるとき。課題や活動に真剣に取り組もうとしないとき。そういう場面では、毅然とした態度で厳しく対応するのが当然であり、場合によっては感情的に怒ったり、「教師も人間であり、傷ついたり腹を立てたりするのだ」と示したりすることが、教育として必要だとさえ思っていたのです。それも、つい最近まで。

しないが子どもの自力を伸ばす――叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』(マイケリーン・ドゥクレフ著、築地書館)を読んで、私の考えは大きく揺さぶられました。この本には、イヌイットの大人たちがもつ「感情をコントロールする力」が詳しく記録されています。彼らは、どんなに子どもにイライラさせられる状況でも、決して怒鳴ったりせず、声を荒らげることもなく、穏やかに対応します。小さな子どもに理由もなく顔を引っ掻かれて、血が流れたとしても。子ども同士でふざけ合って、テーブルの上のコーヒーをひっくり返してしまっても。

「イヌイットは、小さな子どもに怒鳴ることを屈辱的だとみなしている、と年長者たちは私(著者ドゥクレフ氏)に話してくれました。大人が子どものレベルにまで身を落としている、つまり大人版の癇癪を起こしているのだ、と。」(185ページ)

これを読んだとき、私は恥ずかしくなりました。私は穏やかに話せば分かり合えるはずの、分別のある高校生に対してさえ、大きな声で叱責することがありました。それは単に「生徒をコントロールできない自分」に苛立ち、癇癪を起こしていたのだと気づいたのです。にもかかわらず、私は「教育の一環」として、「生徒の力を伸ばすため」にあえて叱っているのだと、自分にも周囲にも思い込ませていました。

それ以来、私は生徒に対して感情が湧き上がってきたとき、まず立ち止まるようにしています。「これから私が口にする言葉やとる行動は、何のためなのか? 生徒をコントロールするためか? それとも、生徒を励ますためか? どうやって伝えるのが一番効果的だろうか?」そう問いかけることで、頭ごなしにきつい口調で注意する代わりに、表情だけで「不適切な行動である」ことを伝えたり、必要なら「今、何をする時間かな?」とか、「あなたが○○できるようになるために、一緒に何ができるかな?」と声をかけられるようになってきました。それでも状況が変わらないなら、少し待ったり、距離を置いたりすればいいのです。生徒との関わりは、今この場で勝ち負けを決める闘いではないのですから。

教師が怒りで接すれば、生徒に怒りを学ばせてしまいます(191ページの図)。生徒の班活動でリーダーが班員を怒鳴っていたとしたら、それは怒りの学習がうまくいっているということ。まさにこの本が提示している「練習+モデル+承認=スキルの習得」という公式の通りです。私たち人間は、よいことも悪いことも、こうして学び、習慣にしていきます。だからこそ、私自身が穏やかに対応できる場面を一つでも多くつくることで、生徒たちも日々それを見て学び、穏やかさを身につけていってくれるはずだと信じています。

湧き上がってくる怒りを和らげるためのルールとして本書では三つのルールを紹介しています。「子どもたちが不適切な行動をとることを想定しておく」、「子どもとの言い争いをしない」、そして、もう一つが、本書で提案する普遍的な子育てアプローチ(TEAM子育て)の中核となる「コントロールせず子どもを励ます」です(204ページ)。

教師としての私は、次から次へと生徒に指示を出すことを自分の仕事だと勘違いしていたのかもしれません。つまり、いつも何かを強制していたということです。そのせいで生徒が怒りや不満をもち、反発を示す行動をとります。そして教師がさらにコントロールしようとし、敵対関係ができあがるのです。今こそ、この悪循環を断ち切るために「励ます」ことを学ぶ必要があります。本書を開くと、そのためのさまざまなツールを学ぶことができます。ぜひ、多くの先生たちに本書を読んでいただき、それぞれの日常で活かせるツールから実際に使ってみていただきたいと思います。

2025年7月13日日曜日

鈴木大裕さんが警鐘する新自由主義が教育を壊すとき 「構想と実行の分離」に抗うためにできることとは何か

 先日、「崩壊する公教育」というテーマで、教育研究者であり土佐町議会議員でもある鈴木大裕氏の講演を拝聴する機会がありました。鈴木氏は、新自由主義が教育にもたらしている深刻な影響について強く警鐘を鳴らし、ICT機器の活用や教員の働き方の変化が、経済効率を優先する分業体制へと移行するなかで、教師たちが専門職としての自信を失いつつある現状を指摘されました。今回は、その講演で私が学んだことを共有するとともに、そこから考えをさらに深めていきたいと思います。


講演の内容については、昨年末に出版された鈴木大裕さんの著書『崩壊する日本の公教育』(集英社新書)に詳しく書かれていますので、ぜひご一読ください。この前著である『崩壊するアメリカの公教育』の姿が今、日本で起こってしまっていることに驚きを隠せません!



「民衆を受け身で従順にする賢い方法は、議論の範囲を厳しく制限した上で、その中で活発な議論をさせることだ」


講演の冒頭で、鈴木さんはノーム・チョムスキーのこの言葉を引用しました。これは、現代の新自由主義がいかにして教育現場を狭い価値観の枠に閉じ込めているかを端的に示しているものです。新自由主義とは、あらゆる物事を市場の価値基準で評価しようとする思想であり、その影響は教育にも深く及んでいます。新自由主義的な価値観が教育に入り込むと、子どもは「将来の労働力」として投資対象となり、学校や教員は「サービス提供者」、児童生徒や保護者は「消費者」として位置づけられるようになります。


こうした構造のもとでは、教育の本来の目的である子どもたちの人格形成や全人的な成長は後回しにされ、「学力向上」といった表面的な成果や、保護者満足度を意識したサービスの質ばかりが重視されるようになってしまいます。その結果、教育の塾化が進み、外部委託が広がる(たとえば、千葉県では塾講師を招いて算数の授業を行うというニュースも記憶に新しい)なかで、教員の役割は「教育者」から「サービス提供者」へと矮小化されている現実が浮かび上がってきました。


鈴木氏がとりわけ強調していたことは、「構想と実行の分離」という問題です。ここでいう「構想」とは、教育内容や指導方法を自ら考え抜く営みを指し、「実行」とは、それを教室で具体的に展開する行為を意味しています。本来、この二つは不可分であるはずですが、いま多くの教員は、自身で授業を設計するゆとりを奪われ、文科省や教育委員会が示すカリキュラムやマニュアルを忠実にこなすだけの「実行者」へと追いやられてしまっています。その結果、教育の本質について深く思索する時間や機会が失われ、仕事に対する疎外感が増し、職業的誇りの喪失が深刻化している。鈴木氏はこの点に強い危機感を示していました。


また、こうした構想と実行の分離を加速させているのがGIGAスクール構想からはじまるICT化などの教育改革であるとも言及されていました。一見、効率的で先進的に見えるタブレットやICT教材の活用が、個別最適化という名の下、実際には教師の子どもを見取る教育的判断や授業作りの構想力を奪い、教育を単なる技術的な作業に変えてしまう危険性があります。教師の役割が機械やシステムに置き換えられることは、子どもの微妙な変化に気付く人間的な関わりや、個々に応じた柔軟な対応が失われる恐れがあるのです。


一見すると、タブレットやICT教材の活用は効率的で先進的に見えます。しかし、「個別最適化」という言葉のもとで進められているこうした改革は、実際には教師が子どもを見取り、授業を構想する力、つまり教育的な判断力や創造性を奪いかねない危うさをはらんでいます。


こうした状況の背景には、政府や行政が進める「働き方改革」の問題点もあります。現在の働き方改革は、主に勤務時間短縮や業務の効率化に重点を置いています。しかし、鈴木氏はこうした改革が、むしろ教員の仕事からの疎外感を増幅させる可能性があると指摘します。残念ながら、この改革の本質が単なる時間の削減に終始しているため、教育の本質的な意義を問い直すことを阻害しているからです。この問題を克服するためには、教育現場に再び「構想」を取り戻すことが不可欠だと提唱されました。教員が自らの教育観に基づいて授業を設計し、実行できる余地を取り戻すことこそが重要なのです。教育委員会や文部科学省が教育の質を「学力向上のパフォーマンス指標」だけで評価するのではなく、教員がどれだけ主体的に子どもと向き合い、全人的に創意工夫しているかという「構想力」を評価する仕組みを取り入れることが求められています。


これには教員が自発的に行うとされる業務の見直しも必要です。勤務時間外に当たり前のように発生している授業準備や生徒指導、保護者対応などの業務を正式な勤務として認め(これらはなんと、教員の自発的行動と見解が文科省によって示されていた!)、それに見合った対価や評価を提供することが重要です。これにより、教員の働きが正当に評価され、仕事への誇りややりがいが回復することが期待できるからです。




新自由主義的な教育観に流されるのではなく、私たち自身が主体性をもって教育を構想し、実践していく姿勢が、今まさに求められています。教員一人ひとりが、学力向上という目先の成果だけにとどまらず、教育の本質的な意義を問い直し、「人格の完成」という教育の究極的な目的に向かって日々の実践を積み重ねていくことが不可欠です。新自由主義に支配される教育の流れに対して、私たちが自らの手で教育を構想し、実行する力を取り戻すことこそが、真に豊かな教育を実現するための第一歩ではないでしょうか。そのためにも、教育現場における「構想と実行」の在り方をともに問い直し、教育が本来持っている多様で豊かな可能性を再発見していく対話を重ねていきたいと思いました。


みなさんの学校現場では、教員が自ら考え、構想し、実行することがどれだけ保障されているでしょうか? 私たち一人ひとりが現場を振り返り、教育の姿をともに描いていく機会にできればと願っています。


2025年7月6日日曜日

エンゲージメントを探し求める旅

これまで、数ヶ月にわたり、学ぶことのエンゲージメントについて考えてきました。★1 ここ数年、注目されてきてもいますし、これからの教育を考えていくうえで、キーとなる考え方だろうと思います。エンゲージメントが生じているかどうかが、主体的な学びの中核にあると言えるでしょう。


4月から二ヶ月くらいかけて、小中高の現職の教員と、ブッククラブをやりました。読んだ本は、サラ・マーサーとゾルタン・ドルニュイさんの著書『外国語学習者のエンゲージメント』★2 。翻訳版を二ヶ月くらいかけて、読みました。週に一章づつ読み、オンラインのドキュメントに記入し、それに対して、お互いがフィードバックを描き込み合う形で進めました。

先日、そのメンバーが集まる「英語教員CAFE」★3 で、この本についての、まとめのブッククラブをやりました。とても、白熱し、話題が尽きませんでした。なぜ、そのように盛り上がったのか、また、現在教壇に立っている先生方は、エンゲージメントについて、何を感じ、何を考えたのでしょうか。その時の議論からまとめてみると:

1点目は、エンゲージメントという観点から授業を見直すことは、自分自身の授業のあり方を根本から見直すきっかけになったということです。日々の業務をこなしながら、ブッククラブをやるのは、なかなか大変そうでしたが、多くの人が、どうしても読み続けたいと感じていたそうです。今やっていることが、本当に子どもたちにとって意味があるのか?長年、続けてきたことに、価値があったのだろうか?自分が信じて続けてきたことを、否定するのは勇気のいることですが、この機会にじっくり考えたいと思ったそうです。

2点目は、これまで学んできた、授業に関することを再確認することができたという点です。この本で、読んだことは、決して新しい考え方ではないと思ったそうです。動機づけや教室環境の問題など、従来、言われ続けてきたことがほとんどだったと感じたそうです★4。それらのことを、エンゲージメントという観点で、考え直してみることに、とても意味があったと感じたようです。

3点目は、子どもたちのリアルな声を聞くことの大切さを実感したそうです。今回、ブッククラブと並行して、出口チケット ★5 や経験サンプリング ★6 といった方法を使って、授業内でエンゲージメントを測定するデータをとる、ミニ・リサーチをやりました。今回は、あくまでパイロット的な調査だったのですが、みなさん、様々な気づきがあったようで、全員で継続してやっていきたいと思ったようです。どのような結果がでると、今から楽しみです。

同書の結びに言葉に「授業に対する学習者のエンゲージメントは決して偶然の産物ではない。」(p.236)とあります。これは、教員に対する厳しい激励でもあると思います。また、同時に、子どもたちが夢中で学ぶ教室を実現することは、不可能ではないという希望の言葉でもあるとも思えます。

筆者らは、エンゲージメントについて考えてきた中で、3つの大きな主題があったことに気づいたと述べています。

1 ポジティブな感情がもつ力
2 教育のパートナーとして学習者に権限を委譲すること
3 学習活動への積極的参加

先生方の探究の旅は、これからです。子どもたちが夢中になれる授業づくり。そのことに、参加した先生方がとても夢中になっているように見えました。それが、とても希望を感じさせてくれました。



★1  「PLC便り」におけるエンゲージメントに関する記事
2025年2月「エンゲージメントの周辺」
2025年3月「エンゲージメントを決定づける要因」
2025年4月「エンゲージメントを実現するための教師の行動」
2025年5月「教師の情熱と冷静のあいだ」
2025年6月「能力と困難の黄金比」

★2 サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.(原著 Mercer, Sarah and Dörnyei, Zoltán (2020) Engaging Language Learners in Contemporary Classrooms,Cambridge Professional Learning.)

★3  「英語教員CAFE」は、英語教員が、楽しく、ワクワク探究し続けることによって、子どもたちが、楽しく、ワクワク英語を学び続けることのできる英語教育の実現を目指して、小中高大の英語教員有志によって、2025年2月に創設された研究グループです。

★4   同書の章立ては次のとおり:
    第1章 学習者エンゲージメントを取り巻くもの
    第2章 学習者の促進的マインドセット
    第3章 教師と学習者の信頼関係(ラポール)
    第4章 ポジティブな教室力学(クラスルーム・ダイナミックス)と教室文化
    第5章 タスク・エンゲージメントの喚起
    第6章 タスク・エンゲージメントの維持

★5  1−2つの質問が書かれた、小さな紙や情報カードのこと。

★6  授業時間内で、10分ごとにチャイムを鳴らすなどして、その時点のエンゲージメントの深さを、生徒に自己評価してもらう方法。

2025年6月29日日曜日

教育において「一貫性」(と「平等」に接するの)はいいこと? そして、teachable momentとは? (教師と生徒のエイジェンシーで共に創る授業=Co-Constructed Classroom ②)

 学校というところ、一貫性(と平等に接すること)を追い求めがちですが、『教師と生徒のエイジェンシーで共に創る授業=Co-Constructed Classroom』は「一貫性を追い求めるよりも、生徒たちの異なるニーズに対応する方が、むしろ彼らのためになるのかもしれません」(同書Kindle版の位置92)と書いています。そのことから、日本の学校教育で殊の外大事にされている「一貫性」がかなりクセモノであることが分かります。

Consistency」の意味をChatGPTに解説してもらうと、次のようになります。

  • それは、同じやり方や基準をずっと守ろうとすること
  • ぶれない対応や方針を維持しようとすること
  • いろいろな状況や対象に対して、一律のやり方を貫こうとすること

生徒たちに対して同じルールや対応を一貫して適用しようとすることを指します

 

要するに、個々の生徒よりも、全体の方が大切ということです。集団生活には欠かせない要素ではありますが、それを大事にするあまり失うものの多さに目をやる必要があります。一貫性と管理、そして「教える側の論理」は、ほぼ同義? ということは、生徒たちがよく学べない条件?? 下に出てくる「teachable moment」や個々の生徒の異なるZDP(最近接発達領域)を活かせない原因?

この点をさらに深く探ると、以下のような問いかけをする必要があります(同、位置94102)。

もし私たちの教育システムが、生徒それぞれの異なるニーズを念頭に置いて構築されていたら、どんな姿になるでしょうか? ここで言うニーズとは、診断された学習上の違いをもつ生徒だけでなく、さまざまな背景、文化、アイデンティティーをもつすべての生徒のニーズのことです。

もし、生徒が「教師が構築した授業」ではなく、生徒と教師が「共に構築する授業」で学んでいたらどうでしょうか?

もし、カリキュラムを生徒のために創るのではなく、生徒とともに創ることが、生徒たちが生活する世界とつながりを感じる、より力強い学びの体験につながるとしたら?

もし、教え方が柔軟で生徒のニーズを満たすものであり、私たちが働く特定の文脈のなかで生徒のニーズを検討し、彼らのニーズに応じて教えていたら?

もし、すべての生徒が公平に成功と成長にアクセスできるよう、評価が柔軟に変化するものであったら?

もし、生徒たちが自分の学校での経験をよりコントロールできたら、その経験についてどう感じるでしょうか?

もしかすると、彼らは実際に学校生活を楽しめるようになるかもしれません。

 

 これらの問いは、日本でこれまでされたことはあるでしょうか?(あるいは、身近な教育関係者が投げかけていたのを聞いたことがありますか?)

 いまある状況とはことなる教育のあり方をイメージできる力は、とてつもなく大きい(と同時に、大切な)気がします。What if(もし・・・だったら)という問いかけができるかできないかは、大きな違いをもたらします。 一貫性を大事にするあまり同じことをやり続けるか、それとも同じところにとどまらずに別の可能性を追求したり、成長し続けられたりするかを意味しますから。

 

そして、teachable moment(教えるのに最適なタイミング)については、つぎのようにかかれています(同上、位置107114)。

しかし、教師に必要なのは、目の前にいる特定の生徒たちのニーズに応じて、教えている特定の文脈の中で柔軟に対応し反応する自由が与えられることです。

教師は生徒の話に耳を傾け、生徒の世界を理解しようと努め、学びの体験を共に創り上げる過程において、生徒に声をもたせることができなければなりません。

「共に構築する授業」とは、すべての生徒が尊重され、力を与えられる場であり、教師と生徒が一緒に学びの計画を立て、学びを実践し、学びを評価する(学ぶ内容、教え方・学び方、そして評価の仕方を計画・実施する)空間です。

それは、教師が「教えなければならない内容や方法」で教えなければならないという恐れを抱くことなく、その場で訪れる「教えられるのに最適のタイミング(teachable moment)」を最大限に活かすことを可能にします。

 

いまは、生徒のニーズに応じたり、生徒と共に創ったりする自由を教師は与えられているでしょうか? それとも、まだ与えられていないでしょうか? 与えられているのに、活かせていないだけでしょうか(それは、なぜでしょうか)?

Teachable momentは、日本語ではどう訳すのがいいのでしょうか? 同じ概念の日本語はありますか?

要するに、教師が「今こそ教えるべき絶好のタイミングだ!」と感じる、生徒にとっての学びの好機のことです。そのために、「見取り」と「子ども理解」はあるようなものとさえ言えるような!!

ChatGPTteachable momentの意味を尋ねた回答は、次のようなものでした。

具体的には、授業や学習計画に必ずしも含まれていないけれど、日常の出来事や生徒の発言、行動の中で「ここは教えるのにぴったりだ!」と感じられる瞬間のことを指します。

例えば:

  • 生徒がある疑問を口にしたとき
  • 予想外の出来事が起きたとき
  • 生徒の感情や関心が高まったとき

 

以上からも分かるように、事前に準備したわけではなくても、教師の見取りと子ども理解によって、「今こそ〇〇を教えるのに最適なタイミング」と判断する瞬間です。ある意味では、これなしで、子どもに残る形で教えることは困難とも言えます。教室にいる生徒全員のteachable momentが一致することはほとんどあり得ず、違う方が多いわけですから。そういう状況のなかで教師は何を、いつ、そしてどう教えるのが効果的なかを考え続ける必要があるわけです。これは、なかなか大変な仕事であると同時に、やりがいがあります。当然のことながら、教科書に基づいた指導書があるから大丈夫とか、指導案を完成させて終わりとはいきません。

2025年6月22日日曜日

子どもたちが楽しく夢中で取り組む授業 と 教科書を押さえる退屈な授業 とのうまいバランスはあるのか? (教師と生徒のエイジェンシーで共に創る授業=The Co-Constructed Classroom ①)

 という悩みを抱えている先生は結構多いのでは? あるいは、後者の授業に疑問をもちつつも、前者の授業にどういう移行できるのかを悩んでいる先生は?

ちょうど、台湾にあるインターナショナル・スクールで教えているAnn Lautrette先生が書いたThe Co-Constructed Classroom: Why agency in curriculum, pedagogy and assessment is the key to an inclusive classroomを読みました。意訳すると、『共に創る授業──カリキュラム・教え方/学び方・評価における教師と生徒のエイジェンシー(主体性)こそがインクルーシブな授業の鍵』というタイトルです。

内容的には、『みんな羽ばたいて』『学びの中心はやっぱり生徒だ!』『あなたの授業が子どもと世界を変える』『プロの教師がすすめるイノベーション』(これらの本は、カナダを含む北米の本)などと似ています。

著者は、イギリス人なので、英語圏では、この方向でかなり進みつつあることが分かります。どの方向かというと、教師(ないし教科書)中心の授業から生徒中心とは言わないまでも、生徒と教師が一緒につくる授業です。それが、まさにこの本のタイトルになっています。そのためには、生徒が(そして当然、教師も!)①カリキュラム(何を学ぶか)、②教え方・学び方、そして③評価の仕方に声を発する/エイジェンシーを発揮する必要がある、ということです。逆に言えば、教科書をカバーする授業である限りは、教師も生徒も声を発する/エイジェンシーを発揮することはできませんから、退屈で残るものの少ない授業が約束されていることを意味します!

本の最初のところには、次のように書かれています(The Co-Constructed Classroom Kindle版の位置: 5365より)。

 

最終的に、私たちは自分たちの教え方に対して自信をもてる地点にたどり着きました。それは、自分たちが「何をしているか」ではなく、生徒たちが何をしているかに焦点を移すことができるようになった地点です。

私たちは、キャリアの初期のある時点で、「教えること」を心配することから「学ぶこと」を心配するように変わりました。

私自身について言えば、当初は、教育(授業)とは教師が「する」ものであり、結果として、生徒に「施される」ものだと理解していました。

20年前には、生徒の主体性(student agency)や、生徒の声や選択(student voice and choice)は、教育の中で大きな位置を占めていなかったように思います。

しかし今では、生徒の学びにとって多様な教育方法(pedagogies)が有効であると理解が進んできたので、このアプローチは依然として「3ステップのプラン」★1として使えるかもしれませんが、探究学習(inquiry-based learning)★2や、I do, you do(まず教師がして見せて、生徒がやる)」モデル★3、あるいはまったく別のもの★4でもいいのです。

 

 日本では、上に書かれているのと似たような状況にすでに来ているでしょうか? それとも、まだでしょうか?(ぜひ、上に引用した箇所をもう一度読み直してください。)

 これから何回かにわたって、教師と生徒が、①カリキュラム(何を学ぶか)、②教え方・学び方、そして③評価の仕方にエイジェンシーを発揮して取り組める授業のつくり方について紹介していきます★5。

 

★1これは、典型的な授業の組み立て方です。(日本では、どのようなものがありますか?)少し長くなりますが、「3ステップのプラン」について書いてあることを下で紹介します。日本の指導案を見ても、同じ気がしますが・・・(でも、真ん中は、教師主導になっていませんか? 最後も、教師がまとめをしていませんか? または、機械的でマンネリ化した振り返りになっていませんか?)

●授業の最初

導入は、何か面白いもので始めましょう。生徒たちの興味を引くこと(釣ること)が絶対に大切です。もしそれができなければ、その時点でもう授業中ずっと生徒の関心は戻ってこないと思ってください。教師の教えたいことが、生徒に届くことはないでしょう。

導入はbell work, a bell ringer, a question of the day, a warm up, a do no(「ベルワーク」「ベルリンガー」「今日の質問」「ウォームアップ」「Do Now」)など、呼び方は何でも構いません。

それと、授業の目的を明確に、はっきり伝えるのを忘れないでください。そうしないと、生徒たちは何を学ぶのか分からないままになってしまいます(同上、位置: 2932

以上は、常に、当てはまりますか? 少なくとも、ライティングやリーディング・ワークショップ(「作家の時間」や「読書家の時間」およびそれらの他教科への応用である「社会科ワークショップ」「数学者の時間」「科学者の時間」あるいは、この下で紹介している★2の探究学習では、毎回の授業では毎回というわけではない気がします。ミニ・レッスン的な形でははじまりますが。

●授業のメインの部分

それから、授業のメインの部分では、生徒に何かを提示する必要があります。新しい概念やトピック、つまり彼らが学ぶべき内容です。授業の目的としてあなたが伝えたものですね。

でも、あまり長く話しすぎないでください。生徒たちは長時間集中できません。彼らに何か作業をさせましょう。話すことも必要ですが、読むことも、書くことも必要です。

この部分では、全員が成長・進歩することが必要です。そして、あなたは一人ひとりをサポートしなければなりません。同時に、全員を常に評価(アセスメント)し続けることも必要です。全員がどういう状況かをちゃんと覚えておいてください。あとでそれが必要になります(同上、位置: 3436

まさに、見取り(見取りをして終わりではなく、それをどう活かすかがないと、見取りをしている意味がない。個別の指導やフィードバック、全体の教え方等に活かす)! それが「指導と評価の一体化」ということそのものなのでは!

●授業の最後の5分間

何をするにしても、授業の最も重要な部分であるPlenary(全体でのふりかえりの時間)のために5分は必ず残しておいてください。もしこれをやらなければ、生徒たちはあなたから学んだことをすべて忘れてしまい、すべてが無駄になってしまいます。

Plenaryでは、目的をもう一度繰り返さなければなりません。絶対に繰り返す必要があります。そして、全員がその目的を理解したかどうかを確認しなければなりません。

生徒が何人いようと関係ありません。あなたに与えられているのは5分だけですから、付箋をちゃんと用意しておいてくださいね。なぜなら、出口チケット(exit ticketsはあなたの味方ですから(同上、位置: 3840

作家や読書家の時間では、最後の5分間は必ず共有の時間として確保されています。その意味では、ミニ・レッスン→ひたすら書く(ないし読む)→共有(作家の椅子ないし読書家に椅子)は、上で紹介されている流れになっています。というか、それの上を行く形で最初のミニ・レッスン以外は、生徒がする(エイジェンシーをもつ)形になっています! 毎回の授業が、パターン化されているので、生徒たちは何を期待されているのか、自分が何をすべきかが容易に予想でき、その分、主体的に行動することができるのです(本物の作家や科学者などのように)。それに対して、教師がその場の成り行きや気分ですることを判断したり、変えたりしていると、生徒たちが自分で考えて、判断して、行動することはできません。

 

★2では、https://docs.google.com/document/d/1Wu_UtIPHoPQQOSbsA_8NNFa1X9W0MN3zxS6gxisks-o/edit?tab=t.0(200%にしてみてください)などがあります。

★3は、『「学びの責任」は誰にあるのか?』で詳しく紹介されているモデルです。教師なら誰もが知っておくべき内容です。元々は、読み方の指導で開発されましたが、いまではすべての教科で応用されています。

★4には、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』で紹介されているアプローチが、よく知られており、欧米ではかなり普及しています。他には、算数・数学教育から生まれたhttps://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E6%95%99%E5%AE%A4 などもあります。これも、算数・数学だけでなく、すべての教科に応用できる方法です!

★5 本のタイトルとブログのタイトルにある「子どもたちが楽しく夢中で取り組む授業」の条件として、「教師のエイジェンシー(主体性)」は欠かせないです。別な言葉でいうと、「教師が本気でやりたい授業」ということです。教師が忖度してやっている授業は、子どもたちも見抜いてしまい、お付き合いする選択肢しかありませんから。

 「子どもたちが楽しく夢中で取り組む授業」と、文科省のキャッチコピーの「主体的で対話的な深い学び」ないし「個別最適な学び」と「協働的な学び」を置き換えられるかというと、厳しいです。まず、これらは教え方・学び方しか対象にしていません。カリキュラムと評価は無視しています。文科省は、一方で教科書をカバーする授業を教師に強いながら、「主体的で対話的な深い学び」ないし「個別最適な学び」と「協働的な学び」を教師に期待しているわけですが、両者は相容れないことをご存じないようです。教科書がある限りは、「主体的」も「個別最適」もほぼあり得ませんから! それほど、何を学ぶかと、どう学ぶかは密接に関係しており、切り離せません。

さらに、文科省はほとんど評価にも言及していませんが、https://wwletter.blogspot.com/2023/11/blog-post.html の「主体的に学習に取り組む態度」のところをお読みください。こちらも、生徒の学びの態度や量を評価するというよりも、9割がたは教師の側(教える内容、方法、態度・姿勢)を評価しているとしか言えないでしょう。カリキュラムと教え方・学び方と評価の3者は切り離せないのです!

2025年6月17日火曜日

能力と困難の黄金比

エンゲージメントの問題を考えるときに、個人的に一番難しく感じるのが、難易度とエンゲージメントの関係です。

私は長らく高校の教員をしていて、いくつかのタイプの高校で勤務をしました。実業系の学校に勤務していたときは、できる限り魅力ある授業をして、多くの生徒を惹きつけていきたい。一人も取りこぼさないことを正義として、授業と向き合っていました。一方で、いわゆる進学校といわれる学校に勤めた時は、実業系の学校とは異なる課題に直面しました。全員が達成できるようなゴールを設定すると、事もなく、多くの生徒たちが達成してしまうのです。

英語教育では、目の前に赤いペンがあるのに、”What color is this pen?”のような、自明かつ単純な発話を繰り返すことを、必要な練習としてやってきました。外国語の構造を理解させ、習熟させるには、必要不可欠であると、考えられてきたのです。「明らかなことがらをただ発話させるだけといった知的レベルの低い活動は、学習者に退屈さと苛立ちをもたらす。(p.191)」★1 このようなことを、疑うことなくやってきたのです。★2

「能力と困難の黄金比」という考え方があります。チクセントミハイによると、「困難の度合いとその人間の行動能力との間に程よいバランスがとれたとき、退屈と不安の境界線上に喜びが現れる。」という考え方です。(p.190) 要するに、生徒のもっている力と学ぶことの難易度のバランスがうまくとれたときに、真のエンゲージメントが生まれるというのです。

私は、長年、現職の先生たちと、ブッククラブや研究プロジェクトを一緒にやってきました。その中で、ずっと気になっていることは、生徒たちに負担をかけたくないと考える「やさしすぎる」先生が多くいるということです。

生徒たちにストレスをかけたり、困難を経験させたくない。生徒たちに降りかかる負担や不安を取り除いてあげたいという気持ちは分かるのですが、その姿勢が行きすぎてしまうと、本当にワクワクするような学びから、生徒たちを遠ざけてしまうかもしれないのです。一見、やさしさのように見えて、実は、学びの豊かさや醍醐味を、先生が制限しているのかもしれないのです。

「望ましい困難」はある。このことを、常に意識して、生徒たちに、もっともっとチャレンジさせてみてはどうでしょうか。そこに、学びのエンゲージメントへの一つの突破口がありそうです。


★1 サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.

★2 もちろん、今では言語の構造のみに焦点を当てた授業は少なくなってきています。今の高等学校学習指導要領には、「論理・表現」という、外国語の科目とは思えないような名前のものがありますが、象徴的なものかもしれません。

「高校の新しい英語授業「英語コミュニケーション」「論理・表現」とは」

https://eikaiwa.weblio.jp/school/information/education/new-subjects-in-english/#:~:text=


2025年6月8日日曜日

答えのない教室――Thinking Classroomの実践から

昨年度刊行された梅木卓也・有澤和歌子著『答えのない教室 3人で「考える」算数・数学の授業』(新評論)は、カナダの教育研究者リリヤドール教授が15年以上にわたって築き上げてきた「Thinking Classroom」の理論と実践を、日本の現場に紹介する内容となっています。




 

PLC便りでも2023年にすでに「Thinking Classroom」のさわりは紹介してきましたが、本書は実際の授業実践となっています。

 

「考える教室」をつくるには

https://projectbetterschool.blogspot.com/2023/04/blog-post.html

 

 

「答えのない教室」という日本語訳のタイトルには、正解を求めるのではなく、考えること自体を楽しむ授業への願いが込められています。とてもいいネーミング。教師に頼って正解を教えてもらうのではなく、自分の頭で考え、友だちと一緒に試し、話し合いながら答えを探していく。そんな思考が止まらない授業実践づくりのポイントが、本書では数多く紹介されています。

 

「子どもたちは本当に考えているのか?」

 

リリヤドール教授がカナダで行った調査によると、あるクラスの中で実際に考えていたのは全体のわずか2割。30人のクラスなら6人ほどが、授業中の15分間だけ思考に集中していたという結果が出ています。他の子どもたちは、教師の解説を待ち、問題を解く「ふり」をしていたのです。こうした現状に対する危機感から生まれたのが、「Thinking Classroom=答えのない教室」というアプローチです。

 

この実践では、いくつかの特徴があります。

 

①立って学ぶ

まず「立って学ぶ」という点です。多くの日本の授業では子どもたちは椅子に座ったままですが、この実践では、ホワイトボードの前に立って学びます。リリヤドール教授の研究によれば、座っていると「何かしているふり」がしやすく、教師の目から逃れがちですが、立っていると「何かをしよう」という意識が自然に芽生え、集中力が高まるという結果が出ています。

 

②ホワイトボードに書く

次に「ホワイトボードに書く」という点です。紙に書くと「きちんとまとめてから書こう」と身構えてしまうことがありますが、ホワイトボードは書いてもすぐに消せるため、「とりあえず書いてみよう」という気持ちになりやすくなります。間違ってもすぐに修正できるという安心感が、「考えてみよう」という意欲につながります。実際に使われるボードのサイズは、縦90センチ、横60センチが目安とされています。

3人で学ぶ

さらに「3人で学ぶ」という点も大きな特徴です。日本では4人グループが一般的ですが、Thinking Classroomでは、さまざまな実験を通じて最適な人数が「3人」であることが明らかになっています。2人では行き詰まりやすく、4人以上では受け身になってしまう子が出る傾向があります。3人だと適度な多様性がありつつ、全員が参加しやすくなるという利点があります。

 

また、グループの決め方も大切です。よくありがちな「仲の良い子同士」「同じ学力の子同士」での編成では、偏った役割分担が生まれたり、学びが固定化されたりしやすくなります。ランダムにグループを編成することによって、多様な考え方や立場に触れることを重視しています。

 

④問題はスモールステップ

授業で扱う問題も工夫されています。特徴的なのは「スモールステップの10問程度」を準備することです。教科書の問題は1問ごとのギャップが大きいことがありますが、Thinking Classroomでは、「数字を1つだけ変えた問題」など、小さなステップで無理なく思考を進められるような設計がなされています。最初の問題は誰でも解けるような簡単な内容にしておき、そこから少しずつ難易度を上げていくのがポイントです。

 

尚、生徒がつい考えたくなるような準備運動の問題があり、それについては今年の3月にすでに紹介したので、ぜひ挑戦してください。

PLC便り「この問題、解けますか? 考えるための3種類の良問」

https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/03/blog-post_9.html

 

 

これらの1コマあたりの授業は、教師の短い説明(510分)から始まります。最初は「自分たちがすでに知っていること」を確認し合いながら、その日の課題に取り組んでいきます。すぐに子どもたちはホワイトボードの前に立ち、グループで考え始めル時間が2030分。授業の終盤には、子どもたちが出した多様な解法を共有し、学びを深めていきます。他のグループから意見をもらう構造にすることで、思考の広がりが生まれます。

 

このような実践は、特別な環境がなくても、どの教室でも導入が可能です。もちろん、小学校で行う場合にはもう少し具体的な支援や配慮が必要になるかもしれませんが、考えることを中心に据えた授業を実現したい先生にとって、大きなヒントとなるはずです。

 

なお、今月には小学校での実践に特化した続編『答えのない教室 パート2』も刊行されました。答えのない教室の世界をもっと深く知りたい方は、ぜひそちらも読んでみてください。

 

2025年6月1日日曜日

大きなボタンの掛け違えが、子育てでも、学校教育でもおきている!?

 7月に出版予定の『"しない"が子どもの自力を伸ばす――叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』(マイケリーン・ドゥクレフ著、築地書館)の共訳者の「訳者あとがき」は、

 SNS上で「#母親やめたい」という投稿をよく見かけます。

で始まっています。(「#父親やめたい」は、まだなさそうです! 「やめたい」と言うほどやっていないから?)教師も、母親と同じ状況にありますし、どんどんやめる人が増えています。母親と教師には、置かれている状況ややめたい理由に共通点が多そうです(いくら頑張って取り組んでも、これでいいということはないし、感謝されず、報われることもないなど?)。

 ヘリコプター・ペアレンティング(管理的な子育て)もフリーレンジ・ペアレンティング(自由放任の子育て)も、親にとっても子どもにとっても不幸というのが、この本を読むとわかります。それに対して、第3の方法である人類が20万年前から長年やってきたTEAMペアレンティングに転換できると、関係者は全員楽になるだけでなく、幸せにもなります。その成功間違いなしの方法について詳しく説明されているのが本書です。子育てにはもちろん、学校で行われている教育(授業)でも役立つと思って訳しました。なお、TEAMは、子育てと、会社や行政などの組織でも当たり前にやられ続けている「叱る、ほめる、コントロールする」の反対の共に過ごすこと、励ますこと、自立、最低限の干渉の4本の柱の頭文字をとっています(本は、これら4本の柱で構成されており、実際にこれらを実現するための方法が詳しく書かれています!)。

 3つのペアレンティングと4本の柱は、そのまま教師のティーチングに応用できます。

 3つのペアレンティング(特に、管理的な子育て)に関して、共訳者は次のように書いています。

 私自身、約二〇年間、学級担任や教科担任として、生徒の成長を願いながら、学校で働いてきました。自分の意見をもち、他者の考えに耳を傾け、自分で考え行動できる人になってほしい。そんな思いから、生徒の主体性を引き出そうと、本書の第2章の三つの習慣★(51~59ページ参照)さながら、❶教室にあらゆる教具を持ち込み、❷さまざまな活動を用意し、授業では生徒が失敗しないように先回りして指示を出し、活動状況を監視し、❸小さなことも見逃さず大げさに褒めたたえ、不適切な言動に対しては口うるさく注意してきました。けれどもその結果、私の思いとは裏腹に、生徒の主体性は育たず、生徒は反発し、私自身も疲れ果て、お互い思うようにならない状況に嫌気がさしてしまうこともありました。本書を読みながら、当時の苦々しい記憶がよみがえり、「私が生徒たちをコントロールしようとしていて、生徒はその支配に抵抗していただけだったのか」と気づき、愕然としました。教室で、成長につながらない無駄な「権力争い」を繰り広げていたのです。

★子育ての際の3つの習慣は、①いろんなおもちゃを山積みに、②学びの祭典(学びの楽しさを追求する場や活動)、③ほめて、ほめて、さらにほめまくる、です。これらの授業や学級経営への応用が、❶~❸に相当しています。

 この本は、この三つの負の習慣を、三つの正の習慣に転換するというよりも、公式(子どもに教える際の手順)に気づくように促されます。その公式とは

  練習+モデル+承認=スキルの習得(身につく形での学び)

です。私たちは、子どもたちが悪いことを学ぶ際にも、いいことを学ぶ際にも、この公式(手順)を使っており、そのことに気づけたら、悪いことには極力使わずに、いいことに使えるようになります。本の中では、本の中盤(85、122、163ページ)で3つの要素(ステップ)を詳しく紹介してくれた後、後半(216、327、379、386ページなど)では繰り返し思い出させてくれますから、読者も自然に身につけられるようになっています。

 以上のTEAM子育て(=授業)の「共に過ごすこと、励ますこと、自立、最小限の干渉」の4つの要素と、子どもに教える際の公式(3つの手順)がなんといっても、本書の2本の柱ですが、他にも子育て(=授業や学級経営)に参考になることがたくさん書かれています★★ので、『"しない"が子どもの自力を伸ばす――叱らない・ほめない・コントロールしない、狩猟採集民の子育て術』を是非ご一読ください。

★★それらについては、次回以降に紹介していきたいと思っています。たとえば、その一つがアロ・ペアレンティングであり、それの教育への応用としてのアロ・ティーチングです。アロ・ペアレンティングとは、親以外の人たちが他人の子どもを育てたり世話をしたりすることを指す言葉で、特に動物の社会でよく見られますが、人間の場合も狩猟採集コミュニティーでは昔も今も行われています。吉田松陰の松下村塾も、緒方洪庵の適塾も、塾長のみが教えていたのではありません。先輩たちが後輩たちを教える仕組み(そうすることで、先輩たちも、よりよく学べる!)や、塾生同士の学び合いが中心でした。

2025年5月24日土曜日

教室の壁を越えていく

 

 この4月から中学校の教科書が改訂されました。どの教科書もICTに対応するような体裁になり、ディジタル教科書ではさまざまな資料につながるような工夫がされたりしています。ただ、いくら仕掛けがいろいろと埋め込まれていても、教科書をカバーする授業では、思考力を育てることは難しいでしょう。そのような授業をパワーアップしていくために、「オーディエンス」という視点から授業を見直してみてはどうでしょうか。

昨年出版された『一人一台で授業をパワーアップ!』(新評論)(以下、『パワーアップ』)の第5章にはその「オーディエンス」を取り入れた授業実践が紹介されています。

たとえば、学習活動の成果をまとめる段階で、クラス内で「発表」することがよく行われますが、『パワーアップ』では、教室の壁を取り払い、拡張することが提案されています。  

具体的には、ネット上のブログ、電子出版、ビデオ会議などによって、校外の人々に公開していきます。もっともブログなどは公開の範囲を限定するなど、現実的にはいくつかの配慮事項があると思いますが、不可能なことではありません。

電子出版ではないのですが、10年以上前に、私の勤務した中学校で全校生徒が「800字の短編小説」プロジェクトに取り組んだことがありました。学年によっては、それをまとめて印刷物にして、生徒全員がお互いの作品を読むだけでなく、保護者も読者になるようにしてくれました。私もその1冊をもらいましたが、今読んでも中学生の書いたものかと思うくらい素敵な短編小説が並んでいます。ふだんは、あまり目立たない生徒も仲間や担任以外の先生からのフィードバックをもらうこともできて、その後の信頼関係の醸成にも役立ちました。「創造力を育てる」と文科省は簡単に言いますが、実際に現場でそれをやるためには、こうした地道な活動の積み上げが必要です。今は当時よりもさらに、より多様な活動ができると思います。

ところで、『メディア教育宣言』(水越伸・監訳/世界思想社/2023)でも、「オーディエンス」の存在の重要性が語られています。「自分の制作したメディア作品をより多くのオーディエンスの前で発表し、そこからフィードバックを得て、それを考察する」(同書79ページ)という、メディア教育の欠かせないプロセスであると。

『パワーアップ』においても、学習活動の発展として、生徒が自分たちの書いたものを電子出版する事例が紹介されています。その結果、読者対象は先生だけでなく、クラスの生徒、生徒の保護者、全校生徒へと広げることができたのです。このように本物の読者を提供することは、『教科書をハックする』(新評論/2020)でも「生徒に本気で取り組ませることになりますし、より良い作品を生み出そうと刺激することにもなります。実際の読者が設定された書く課題は、しばしば学習経験の集大成となります。」(同書195ページ)と「学ぶために書く活動」に向けて、教師ができることの一つであると説明されています。この「書く活動」の一例が理科の時間では、「科学読み物を書く」活動となります。『だれもが<科学者>になれる!(新評論・2020年、160~161ページ)には、『自分を金だと思っていた黄鉄鉱』という絵本を制作した3人の生徒の活動が紹介されています。

また、同書には教室の外に広がる学習活動として、「子ども探究大会」の事例も掲載されています。この大会は、近隣の学校と連携して、それぞれの学校で行われた理科の探究活動の成果を発表する場として機能しています。事前の準備には、手間も時間もかかりますが、大会の帰りのバスの中では、「それぞれの生徒が、発表をしたり、ハンズオン会場で活動の手助けをしたり、聴衆として質問をしたりして、最善を尽くしつつ、イベントに貢献」(212ページ)し、満足感にあふれた笑顔の生徒たちを見ることができました。科学者たちの学会にならった発表の場で、互いに発表者とオーディエンスの両方の立場を経験したわけです。それにより、互いに学びあい、自身の探究活動をしっかりと振り返ることもできるわけです。まさに、本物の学者のように、生徒たちは「探究のサイクル」を回しています。

このような聴衆の存在が学習者の学びを深めてくれることは、社会科学の分野でも指摘されています。

「社会科学者は「聴衆の効果」と呼ばれるものを発見しました。それは、人が見ていると分かっているときに、パフォーマンスのレベルが変化するというものです。」『教育のプロが進めるイノベーション』(ジョージ・クーロス/新評論・2019/61ページ)

 こうしたパフォーマンスの向上により、学びは深化していきます。『パワーアップ』にも第5章の章末で、「校外のリアルな世界とつながる機会にアンテナを張ってください。」(135ページ)と生徒たちのオーディエンス拡大を提案しています。以前なら学校に来てもらうか、こちらから訪問するしかなかった「校外の専門家」とオンラインでつながることも可能です。このテクノロジーの恩恵を利用しない手はありません。多くの教室でリアルに社会とつながる学びが必要です。そのための教育方法を学ぶことは教師自身の成長にも欠くことのできないものとなるでしょう。

2025年5月18日日曜日

教師の情熱と冷静のあいだ

私は、学園ものドラマ全盛期の世代です。1960年代後半から1980年のころ。番組のタイトルには、たいてい「青春」の文字が入っていました。例えば、青春とはなんだ、これが青春だ、でっかい青春、青春をつっ走れ、泣くな青春、飛び出せ!青春、ーといった調子です。よくもまあこれだけ思いついたものだと関心しますが、当時の日本の状況がよく現れているような気がします。日本は、高度経済成長の真っ只中、明るい未来に向けて、列島全体が熱狂の中にいた。学校も青々しい若さの中で、はつらつとしていた。

私は、これらの番組のファンで、主人公である熱血教師にあこがれの気持ちを抱いていました。教員採用試験の面接なんかでは、もっともらしい志願理由を述べたと記憶していますが、今でこそ白状しますが、本音のところは、学園ドラマの主人公の先生のようになりたいと思っていたのです。

生徒たちと取っ組み合い、語り合い、情熱をもって、共に歩む、そんな教師になりたかった。

もちろん、情熱だけで何とかなるほど簡単なわけではないですが、学習者のモーチベーションに影響を与える重要な要因の一つが、「教師の情熱と学習への関わりの深さ」であるとことは多くの研究で示唆されています。★1 

生徒たちが、夢中になって学び続けるためには、教師自身が自分の仕事に夢中になって取り組み、楽しんでいる必要がある。

一方で、このような情熱に任せた、猛烈な「働き方」が、決して健全とは言えない教師の働き方を生んできたのも事実でしょう。夜遅くまで学校に残って働き続けることや土日に部活動で仕事に行くことは、教師にとって当然のことという認識は、長らく共有されてきました。多くの教員がバーンアウトで苦しみ、精神疾患も抱える教員の数も増え続けています。★2

そのような働き方から外れることは、教師としてとても居心地の悪いことだったと感じてきた人は多い。私の友人も、早い時間が職場を出るときに、罪悪感を感じると言う人はたくさんいます。また、週末の部活があるために、家族へのサービスは二の次にしてきたと忸怩たる思いを語る友人も少なくありません。利他的と言えば聞こえは良いけれど、滅私奉公的なマインドセットが当然のことのように定着していると感じます。

働き方改革は、喫緊の課題です。しかし、働き方改革の取り組みは必ずしも上手くいっているようには見えません。時短、いわゆる勤務時間を機械的に削減しても、解決しない問題であることは、分かってきました。働きがいや業務の負担感、時間不足による焦り、手抜き可能な業務との関係など、勤務時間以外の要員も考えるべきという提案は興味深いものです。★3

教師が幸福(ウエルビーンぐ)を求めることは、「甘えでもわがままでもない。その回復力と素晴らしい授業実践のための重要な鍵に他ならない。」 ★1 (p.89)こういった考え方を、もっと多くの人が示し、実践すべきではないかと思います。

仕事への情熱を持ち続けるためには、少し肩の力を抜いて、何を捨て去るべきか、冷静に考えることは必要ではなないでしょうか。今、このタイミングで、思い切って教師にとって、本当のウエルビーイングとは、何なのか、考えてみたいものです。


★1 サラ・マーサー/ゾルタン・ドルニュイ(2022)『外国語学習者のエンゲージメント』アルク.

★2 うつ病などで休職した教員 初の7000人超 過去最多 文科省調査

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241220/k10014673801000.html

★3 露口 健司 「教員のウェルビーイングと働き方改革 —働きがいと信頼関係の観点から—」, https://ippjapan.org/archives/8386


2025年5月11日日曜日

よい教育研究とはなにか

 「最新の教え方」「うまくいくステップ」「成績が上がる手続き」——こうした言葉に私たち教員はつい惹かれてしまい、手法やノウハウに注目しすぎてしまうことがあります。新しい教材、流行のプログラム、SNSで話題の実践など、「よさそう」と感じたものを、深く考えずにすぐ試したくなる。そして、うまくいったように思えると、そのやり方がまるで正解であり真理であるかのように思い込んでしまうこともあります。

教育現場では、こうした「方法信仰」がしばしば見られます。しかし、そのとき私たちは立ち止まり、「そもそもその実践は何のために行っているのか?」という根本的な問いを忘れていないかを見直す必要があります。

オランダの教育学者ガート・ビースタは著書『よい教育研究とはなにか』の中で、教育研究を行う際には「なぜその研究を行うのか」という目的を最初に問うべきだと述べています。

教育現場で日々実践を積む教員、特に子どもの学びと成長を願う教員は、よりよい教育の実現を目指して取り組んでいます。しかし、その過程で、気づかぬうちに方法やテクニックに焦点を当てすぎてしまうことがあります。もちろん、それ自体が悪いわけではありません。ただ「正しい方法さえ見つかれば教育はうまくいく」と考えてしまうと、教育における本質的な問題と向き合う視点をつい見失いがちです。

 

ビースタは、現代の教育研究において、新しい手法やデータ分析の技術が自己目的化してしまい、研究が教育の現実や子どもとの関係から乖離してしまう危険を指摘します。だからこそ重要なのは、「どの理論が使えるか」ではなく、「その理論を使って何を目指すのか」という、目的への立ち返りです。ビースタはこう言います。

「理論を信じるのではなく、教育的目的のために理論を使え」

The point is not to believe in theory, but to use theory for educational purposes.

 

この指摘は、教育に関する専門書や研究会で見かける「信条的告白」への批判ともつながります。「私は構成主義者です」「○○メソッドを信じています」と語ることは、現実の教育課題への応答ではなく、むしろ個人的な信念の表明にとどまり、学術的な責任の所在を曖昧にしてしまうのです。

 

ビースタは、教育における研究の目的を大きく三つに分類しています。「説明(explanation)」「理解(understanding)」「解放(emancipation)」です。

 

「説明」は、教育現象の因果関係を明らかにすることを目指します。たとえば「協同学習を導入するとテストの成績が上がる」といったように、特定の取り組みと結果の関係を数量的に示す研究です。これは主に量的研究の領域に位置づけられ、教育現象を予測・制御可能なものと見なします。

 

「理解」は、教育の現場で何が起きているのかを、その場にいる人々の意味づけや視点を通して捉えようとするものです。たとえば、ある子どもが授業中に発言を控える背景を、その子の体験や教室内の関係性から読み解こうとする姿勢がこれに当たります。質的研究で重視されるアプローチです。

 

「解放」は、教育に潜む抑圧や不平等な構造を明らかにし、それを乗り越える可能性を探ることを目的とします。たとえば、ある評価制度が特定の子どもに不利に働いているとき、その構造を問い直し、より公正な在り方を模索する研究がここに含まれます。批判的教育学やアクションリサーチと深く関係しています。

 

ビースタは、こうした研究目的を方法論の違いとして単純に分けるのではなく、研究が「何のために行われるのか」という本質的な問いに基づいて区別すべきだと述べています。つまり、「どの方法を使えばうまくいくか」ではなく、「その方法は子どもにとって何をもたらすのか」と問い続けることが、教育実践において求められる姿勢なのです。

 

研究が、教育の意味を問う営みとして行われるとき、そこには「教育的な負(ネガティブな課題)が投げ返される場」が生まれます。それは、他者に対して「私はなぜこれを行うのか」と説明責任を持つことであり、教育という営みに公共性を与える行為でもあります。

 

「私はこう信じているからこうする」ではなく、「教育の場としてこれはどうあるべきか」を共に考える。その共有可能な問いの存在こそが、教育研究の価値と信頼性を支えているのです。

 

2025年5月4日日曜日

続・今年度の残り11か月で、あなたが伸ばしたい授業力は?

  姉妹ブログのhttps://wwletter.blogspot.com/2025/05/blog-post.html で、2日前に教室にいるほとんどの生徒が興味をもって、しかも身につく形で取り組んでもらえる教師の授業力を延ばすための枠組みを提供しました。図の2段目と4段目をしっかり理解・把握しながら、3段目の「内容」「方法」(詳しくは、5段目)「成果物」「感情/環境」の持ち駒を一つでも増やしていくことが、教科書をカバーして終わりの(つまり、教師は教えたと言えても、多くの生徒は学べていない/身につくものが少ない)授業を脱する鍵です。

 先のブログのなかでは、「内容」と「方法」については触れましたが、「成果物」と「感情/環境」についてはノータッチでしたので、ここで扱わせていただきます。

 

◆成果物=評価

 3段目の「成果物」には「生徒が知識を得たり、理解したり、できるようになったことをどのように示すか★」と書かれています。これまで、評価の主な方法はテスト/試験でしたが、欧米では30年以上前から、「もう、それではまずい!」という人が教育界のなかで増え始め、オーセンティックな評価(従来の「偽物」であるテスト/試験に代わる「本物」の評価という捉え方です!★)を志向し始めました。同時に同じころに、従来からの「教えた結果ないし学んだ結果としての評価」=総括的評価=成績よりも、2段目の「教えることと学ぶことにいかすための評価」=形成的評価をより重視する方向に舵を切り始めました。

 少しタイミングは遅れますが(約25年前)、日本でも文部科学省が「指導と評価の一体化」を言い始めました。しかし、残念ながら、いまだにその実態が日本の教育現場で見られるようにはなっていません。そもそも「指導と評価を一体化」を言い始めた人たちも、その中身をどれだけ理解していたのかは疑問なぐらいです(し、そのことはいまだに続いているとさえ言えます。それは、この次に触れるように教え方・学び方の転換がない(極めて遅い)ことに起因する部分が大きくありますし、すべては「入試」が左右しているということにも!)。

 さらには、ライティングとリーディング・ワークショップ(や、その他教科への応用)およびPBL(プロジェクト学習とプロブレム学習)に代表される教え方・学び方の転換もあり、それらの評価は従来のテスト/試験にはなじまないという状況も生み出していました。

評価から授業を変えるための本には、次のようなものがありますので、ぜひ参考にしてください。

・『聞くことから始めよう!~やる気を引き出し、意欲を高める評価』マイロン・デューク著、さくら社、2023年

・『成績だけが評価じゃない~感情と社会性を育む(SELための評価)スター・サックシュタイン著、新評論、2023年

・『成績をハックする』スター・サックシュタイン著、新評論、2018年

・『一人ひとりをいかす評価』キャロル・トムリンソンほか著、北大路書房、2018年

・『教科書をハックする』リリア・コセット・レント著、新評論、2020年

・『「考える力」はこうしてつける』増補版、ジェニ・ウィルソンほか著、新評論、2018年

・『私にも言いたいことがあります!』デイヴィッド・ブース著、新評論、2021年

・『挫折ポイント』アダム・チェインバーリンほか著、新評論、2021年

・『ピア・フィードバック』スター・サックシュタイン著、新評論、2021年

・『あなたの授業力はどのくらい?』ジェフ・マーシャル著、教育開発研究所、2022年

・『歴史をする~生徒をいかす教え方・学び方とその評価』リンダ・レヴィスティックほか著、新評論、2021年

 

◆感情/環境

 これは、https://wwletter.blogspot.com/2025/05/blog-post.html にある図の2段目の「学習を促し支援する環境」と同じで、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の第4章「健全な教室環境の特徴」に、次の項目で詳しく書かれているので、興味をもたれた方を是非覗いてみてください。

1 教師は生徒一人ひとりを個人として理解する

2 教師は、生徒をまるごと捉えて教える。

3 教師がいつも自分の専門的な知見を広げようとしている

4 教師は生徒とさまざまな概念を関連づける

5 楽しい学びにしようと教師が一生懸命努力する

6 教師が高い期待を設定する-そして多くの階段(ルート)を提供する

7 教師は、生徒がいろいろな概念を自分なりに理解する手助けをする

8 教える営みを生徒と共有する

9 教師が生徒の自立を促す

10 教師が前向きな教室運営をする

ここでは、年度が始まってまだ1か月ということで、生徒全員が居場所意識をもてる教室環境に焦点を当てます。

学校を考えたとき、居場所意識は「人々がその空間で起こることに対して自分のオウナーシップ(所有感)をもっているとき」に生まれるものです。居場所意識とは、ある人が自分の声がいかされると感じ、自分にエージェンシー(主体性)があり、その空間に自分がいなければ何かが欠けていると感じることを意味します。

あなたが自分のことを考えると、きっと強い居場所意識があることでしょう。なぜなら、教室で起こることに対してエージェンシーをもっており、自分の考えはそのままいかされ、自分がその空間に与える影響を信じているからです。もし特定の日に自分が学校にいなければ、そのことに気づき、空虚さを感じる人々がいると思っていることでしょう。

 今度は、あなたのクラスの生徒たちについて考えてみてください。生徒は居場所意識を感じているでしょうか? どうすればそれがわかるでしょうか?

クラス(あるいは、あなた)が生徒たちに居場所を感じさせるとき、私たちが目にし、耳にし、心で感じられるものにはどんなものがあるでしょうか?

 生徒と一言でいっても、いろいろな生徒がいるので、居場所意識をもっている生徒からそうでない(希薄な)生徒まで多様かと思います。後者の生徒には、どのような手を打っていますか?

 すべての生徒に居場所を意識をもってもらうのに、上で示した「健全な教室環境の特徴」の10項目をほとんど押さえる形で授業展開を紹介している『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』以外の2冊の本を紹介します。以下のURL目次が見られますので、確認してください。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784794812247

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784794812384

 

★日本では依然として評価といえばテスト/試験しか存在しないというぐらいに君臨し続けているのに、欧米では(すでに、20年以上前から)、どうして「偽物」のレッテルを貼られてしまったのでしょうか? それは、成果物の定義にある「生徒が知識を得たり、理解したり、できるようになったことをどのように示すか」と深く関係しています。テスト/試験でせいぜい測れるのは、ブルームの思考の6段階(記憶、理解、応用、分析、評価、創造)でいうと、記憶(覚える、暗記)+理解の一部ぐらい★★なのです。それ以上の応用、分析、評価、創造は、テスト/試験ではほぼ不可能です。プロジェクトを自分で考えて創り出したり、あるいはポートフォリオやパフォーマンスなどの形で示せないと、自分ができるようになったことを他人が受け入れてくれる形で伝えるのは困難です。

 学校に蔓延している歪んだ平等意識を払しょくすることの模索が盛んに行われていることも背景にあります。https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=%E5%B9%B3%E7%AD%89

や下のイラストのように。

★★理解の全部ではなく、一部としたのは、『理解をもたらすカリキュラム設計』(グラント・ウィギンズほか著、日本標準、2012年)と、『理解するってどういうこと?』(エリン・キーン著、新曜社、2014年)を読んでいただくと(「理解」の奥深さを)納得していただけます。