2013年11月17日日曜日

授業のあり方


前回の記事の中に次のような指摘がありました。
 

(以下、前回記事の引用)

この論文の中に、教師がしてはいけないことのリスト(=悲惨な授業をつくり出す要因)が以下のように提示されていますが、これらは日本では、いまだに教師が当たり前のようにしていることばかりではないでしょうか?

     情報を提供すること(=教えること)

     質問

     指示

     課題を提示

     課題のチェック

     机間巡視 (警察的な役割)

     テスト

     テストのチェック

     宿題

     宿題のチェック

     生徒指導

     作文の添削

(貼り付け 終わり)

 

ここに書かれていることは、すでにある「正解」を効率よく教えようという教育方法だと言えます。この方向を良しとする考えを持っている教師が今でも少なからずいることは事実です。

「教え込み」はだめだと言うと、すぐに「基礎・基本」はどうするのだという反論に出会います。しかし、このブログでもこれまで何回も取り上げてきたように、「応用」から「基本」への双方向の学びは可能なのです。

 

(以下、再び、前回記事の引用)

それに対して、探究学習(やライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップ)が可能にしてくれるのは(=いい授業をつくり出す要素は):

・生徒たちは、自分にとって意味を感じられるテーマや課題を学ぶ。自分がしていることに価値を見いだせれば、学校や授業をより好意的に捉えることができる。 〜 単に課題をこなしたり、テストや成績のために勉強するのではなく、自分が意味を感じたり、面白いと思って取り組む。

(貼り付け 終わり)

 

「学ぶ意味が感じられる」というのは学習意欲を高める上で非常に重要だと思います。

以前このブログでも紹介した「Nurturing Inquiry(Charles R.Pearce:Heinemann)では、教え込みではない、探究型の理科授業(サイエンス・ワークショップを中心にした授業)が詳細に描かれています。読んでいて、私も次はどうなるのだろうとわくわくして、面白く感じるくらいですから、この先生の教室で学んでいる子どもたちが嬉々として探究活動に取り組んでいる姿が目に浮かびます。

このようなやり方は、子ども自身が関心のあるテーマについて学ぶわけですから、まさに「自分にとって意味を感じられるテーマや課題を学ぶ」ことになっているわけです。ただ、このやり方は子どもにすべてを任せればうまくいくということではなく、教師側の準備や子どもの探究活動を支えるサポートが求められることになります。でもそれほど特別なことではないと思います。どの先生もやる気さえあれば身に付けることができると思いますし、今後日本でも多くの学校で取り入れていけるものだと思います。

最近、子どもたちの「理数離れ」が問題視され、その対策として「科学者による学校での出前授業」あるいは講演会などが企画されていますが、どれもその場しのぎの対策のように感じられてなりません。根本的には、理科の授業を「教科書通りに教える」授業から「子どもの探究活動を中心とした」授業に変える必要があります。

2013年11月10日日曜日

ひさんな授業から、いい授業への移行



 理科、社会、算数・数学、英語などはすべて暗記科目化しています。(国語もでしょうか?)
 それは、テストがあるから??

 そういう自体はおかしいということで、書かれたのがこの記事です。
 なんと、December 1991のことでした。(15~6年前に一度見たことがあったのですが、2週間ほど前に、ある本の参考資料としてあげていたので、再度読みました。)掲載されたのは、アメリカの有名な教育誌の一つのPhi Delta Kappan。(書いた人は、Martin Haberman。論文のタイトルは、The Pedagogy of Poverty Versus Good Teaching
https://www.det.nsw.edu.au/proflearn/docs/pdf/qt_haberman.pdf

 日本と同じように、テストや試験に大きく左右されているような国々でも、できるだけひさんな授業を避け、いい授業に移行しています。

 日本でも、総合的な学習時間はそういう流れに乗ったものではあったわけですが、導入する側に覚悟と知識があったわけではなく、また、導入させられた側も情報や研修等による準備がいい加減だったために、数年もしないうちに中学校ではお荷物化し、小学校でもいまやしっかりやれているところを探す方が大変なのでは、と思います。

 要するには、ひさんな授業しか選択肢がないような状況に日本はずっと置かれていると言えます。これこそが、教育改革の柱であるべきなのに、政治家はもちろん、役人や研究者も、いい授業にはほとんど興味を示しません。その情けなさは、「原子力村」よりも悲劇的存在なのでは、と目を覆うばかりです。

 数年前からは、「習得・活用・探究」をいい始めていますが、どれもままならない状態が続いているのではないでしょうか? そもそも、これらを分けて考えること自体がおかしいのですから。暗記ではなく、考える授業を念頭においたときは、探究をすることで、知識・技能・態度が活動できるレベルで身につきます。それを、基礎・基本がおさえられない限りは、活用も、探究もあり得ないと考えているうちは、いつまでたっても今の状態が続くことを意味しています。順番が逆なのですから。ボタンの掛け違いを最初からやっているのですから。

 この論文の中に、教師がしてはいけないことのリスト(=ひさんな授業をつくり出す要因)が以下のように提示されていますが、これらは日本では、いまだに教師が当たり前のようにしていることばかりではないでしょうか?

     情報を提供すること(=教えること)
     質問
     指示
     課題を提示
     課題のチェック
     机間巡視 (警察的な役割)
     テスト
     テストのチェック
     宿題
     宿題のチェック
     生徒指導
     作文の添削
     成績づけ

 それに対して、探究学習(やライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップ)が可能にしてくれるのは(=いい授業をつくり出す要素は)


    <メルマガからの続き>



・生徒たちは、自分にとって意味を感じられるテーマや課題を学ぶ。自分がしていることに価値を見いだせれば、学校や授業をより好意的に捉えることができる。 ~ 単に課題をこなしたり、テストや成績のために勉強するのではなく、自分が意味を感じたり、面白いと思って取り組む。
・生徒たちは、多様な視点(見方があること)を学ぶ。 ~ 単に情報を受け取るのではなく、広く・深く考える。
・生徒たちは、概念を中心に学ぶ。また、合科的に学ぶことで、個別の知識や情報をより意味を持って学べる。 ~ 単に暗記するのではなく、理解する形で学べる。
・生徒たちは、自分が何をどう学ぶかという計画にかかわる。 ~ 与えられたものを受け取るのではなく、自分たちが主体的かつ自立的な学び手になっていく。
・生徒たちは、ロールプレイやプロジェクトや小グループでの学びに積極的に参加する。~ 生徒相互の教え合い・学び合いが学びの中心ということ。
・生徒たちは、学校や教室の垣根をできるだけ低くして学ぶ。校外に頻繁に出るし、ゲストに頻繁に来てもらう。地域のプロジェクトにも参加する。 ~ 学校や地域で自分の居場所を見出すことになる知識やスキルを身につけていく。
・生徒たちは、習熟度別ではなく、多様なグループで学ぶ。
・生徒たちは、常識と思っていたことや固定観念を疑う形で学ぶ。
・生徒たちは、ネットで情報にアクセスするかたちで学ぶ。 ~ もはや、「教科書だけが情報源」という時代じゃない!!
・生徒たちは、常に振り返りながら、自己評価し、自己修正・改善しながら学ぶ。
+ 生徒たちは、学んだことを共有しながら、モデルから学び続ける。

2013年11月3日日曜日

「朝の読書」=今の学校が抱える課題



いまはかなり広範に行われている「朝の読書」について考えたことを書き出していきます。

1.その前に、いまも1学年10学級というマンモス校は存在するのでしょうか?
  基本的には、校長が生徒たちの顔と名前が一致できるぐらいの規模が理想とされています。子どもたちのことを知らないで管理職は勤まりませんから。(海外のある私立校の校長は、親の顔まで覚えている規模、と言っていました。そこまで対人関係を大切にしています。それに比べて、日本の公立や私立校はいかに保護者を軽視・無視していることでしょうか!!)そうなると、「学校の中の学校」というアプローチが可能です(『効果10倍の学びの技法 ~ シンプルな方法で学校が変わる』の239ページで紹介)。10学級の中学校だったら各学年3~4クラスずつ3学年で、300人強という生徒数です。そのぐらいなら、生徒たちにとっても、教師たちにとっても一体感を感じられる規模なのではないでしょうか? さらには、学校をこの一体感の持てる単位にして運営している例は、いい学校のつくり方について書いた『いい学校の選び方』★の「いい学校のイメージ」(5~14ページ)の中に紹介しました。

2.「朝の読書」は小学校から高校まで、いまとなってはかなり普及しています。しかし、そもそもその紹介の仕方もあって、朝、登校してから勉強が始まる前のあいだに、静かな時間をもって集中すること、おとなしくすることに重きがあるようです。もちろん、本に親しみ、読む力をつける、ということも目的に掲げられていると思いますが、それはどちらかといえば、二の次の目的です。(よく言えば、一石二鳥。悪く言えば、本音と建前の使い分け、です。)
 もう10年以上前になりますが、秋田のあるグループに招かれたオーストラリアのある州の教育委員会の指導主事が、訪ねた学校のすべてで朝の読書が行われていて、東京に戻って私とその体験を振り返って、怒り出しました。「あれは、教育活動とは言えない!」というのです。「何も教えていないじゃないか。ただ、読ませているだけというのは無責任だ」と。私は、一応、上のようなことを説明しましたが、まったく受け入れてくれませんでした。要するに、学校で行うことは「教育活動」であるべきだ、というわけです。しかし、朝の読書はどう考えてもそういうふうにはなっていないと。

3.私も実際に、朝の読書風景をいくつかの教室で観察したことがありますが、このオーストラリアの指導主事が言うことは否定できないと思います。
 約10分間、読みたい本を読む時間です。教師も一緒に読んでいることは少なかったように記憶しています。
 読むのが好きな子や、朝の読書に慣れて、その価値を見いだせている子たちは、それでもいいのですが、読むのが嫌いな子、苦痛な子、自分にあった本が見いだせていない子(いったい、この種の子たちが何割を占めていると思いますか?)たちにとっては、この約10分間は、ひたすら耐える/我慢する/おとなしくしている時間以外に何物でもありません。いったい、どういう教育的価値があるのでしょうか? これは、最たる「隠れたカリキュラム」です。学校側はよかれと思って子どもたちにやらせているのですが、その意図とは違うことを子どもたちは学んでいるのですから。この場合学んでいるは、「読むのは、退屈、面白くない、我慢する時間、意味のない時間」です。
 そして、それを改善しよう、そういう子たちを救済しようという仕組みがまったくありませんから、「無策」以外の何物でもありません。ただひたすら時間さえ提供すればOKというのです。オーストラリアの教育者が怒り出すのも無理はありません。日本人の教育者で怒り出す人がいないのが不思議なぐらいです。どなたか聞いた方いますか?? この取り組みは、はっきりおかしい、という人を。


   <メルマガからの続き>


4.アメリカなどの欧米でSustained Silent Reading(ひたすら静かに読む)という形で実践されていたことを、日本で導入・普及する段階で朝の授業前の時間に行うというように、すり替えられました。アメリカなどでは、単に読むのではなく、読むことが指導される時間の中にこれが位置づけられて行われている場合がほとんどです。
下の表は、日本の朝の読書と読むことに特化した授業の一つであるリーディング・ワークショップのアプローチの違いを整理したものです。(表を左クリックし、黒い画面が出たら、今度は右クリックを押して「画像だけを表示」を左クリックすると、+のサインが出て、それをもう一度クリックすると画像が拡大されて、見やすくなります。画面左上の元に戻る「←」をクリックするとブログ画面に戻ります。)
あまりの違いに愕然としてしまうのではないでしょうか。オーストラリアの指導主事は、右側が読むことを教えることだと思っていますから、日本で朝の読書を見せられて、「こんなのを教育活動と捉えて実践していることはおかしい」と思い、憤慨したわけです。

5.要するに、朝の読書をやり続けていては、読むのが嫌いな子たちにとっては拷問的な部分が無きにしも非ず、ということです。好きになれる要素や、読む力をつける要素が皆無なのですから。
 それに対して、リーディング・ワークショップではそれがふんだんに設けられています。
 まずは、教師のサポートが得られます。選書の。具体的な読み方の。そして読んだものをどう扱うかの。(この辺については、『「読む力」はこうしてつける』をぜひご覧ください。)
 読むことは、決して個別な作業ではないことも、友だちと読み合ったり、ブッククラブなどをして体感していきます。読むのが得意でない子や嫌いな子ほど、読むという行為をソーシャルなものにした方が好きになる可能性は高まります。一人で黙々と読むアプローチは、最初から好きではないのですから。それを、時間を設定して強いたところで、好きになれるはずがありません。(この辺については、『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』をぜひご覧ください。)

6.国語の読む領域(一般的には、読解教育)と、朝の読書や図書の時間をどう関連づけるかが大きく問われています。まったく関係ないもの、別の物と捉えて取り組んでいる限りにおいては、おそらく子どもたちには矛盾したメッセージを送り続けている部分があります。そもそも、国語の読解と読書をわける必要性があるのでしょうか?
 似たようなことは、各教科に読むということがあまりにも少ないこととも関連します。算数・数学、理科、社会の主要教科を考えただけでも、教科書だけでそれらの教科を学んだ時と、教科書以外の多くの関連した本や資料を使って学ぶ時につくられるイメージはまったく異なったものになります。「教科書をカバーするだけで忙しい」などと言っていられるでしょうか? 読むのを好きになり、かつ読む力を身につけるのと同じように、子どもたちがその教科を好きになり、その教科で身につけるべき力を身につけることがテーマなのですから。 教科書をカバーすることに固執することは、目的と手段を捉え違えているとしか思えません。

7.根本は、自立した読み手、学び手に育ってもらうために、朝の読書、読解教育、国語、算数・数学、理科、社会等がどう寄与しているのかを問わなくてはなりませんが、私たちは日々の授業のこなすことに忙しいあまり、そもそもの目的を忘れてしまいがちです。

 以上7点、少しは、習慣でやり過ごしていることを見直すきっかけになったでしょうか?


★ 日本ではまだ、『いい学校のつくり方』というタイトルではニーズがない、ということで、このタイトルにせざるを得ませんでした。出版界では、一番本を読まないのが学校関係者ということになっています。(教科書をカバーしていればいいのですから、読まなくなります。)保護者の方がはるかに本を読むと思っているので、こういうタイトルになってしまいます。

2013年10月27日日曜日

隠れたカリキュラムで思い出すこと



隠れたカリキュラムが前回は話題になりました。

この言葉を聞くと、思い出すことがあります。

 

学校は表のカリキュラムだけでなく、隠れたカリキュラムが子どもたちの思考様式や行動様式に影響を与えていることは前回の指摘の通りです。もう20年近く前になりますが、私がある中学校で初めて学年主任を任されたときのことです。私は学年主任になったら、どうしてもやりたいことがありました。それは、今では当たり前のようにどの学校でも行われている「朝の読書」です。20年前は当然実践している学校はほとんどありませんでした。

 

 主任になって早速校長にその話をすると、「他の学年主任がどう考えるのかそれをまず確かめろ」と言われました。そこで、他の学年の主任さんに「「朝の読書」をやりたいのですが、おたくの学年も一緒にやりませんか」と持ち掛けました。ところが、他の学年主任は剣もほろろに、「そんなことをやっている学校は市内にはありませんよ」「あなたは新しい物好きな人なんだね」と言われ、相手にもされませんでした。そこで、校長にそのことを話すと、「それじゃ、あなたの学年だけ試しにやってみなさい」と言われました。学年ごとに朝の活動が異なるというのも変な話ですが、「まあやれないよりはまだまし」と考えて自分の担当学年だけでスタートさせました。

 

 これは一つの例ですが、生徒指導などに関しても、学年ごとに違いがあり、そんなことが影響して、決していい学校の雰囲気ではありませんでした。当然、問題行動も多発します。その学校は一学年が10クラスある大規模校でしたので、学年が一つの学校だったのだと後になって思いました。同時に、学校は表のカリキュラムだけでなくて、「隠れたカリキュラム」が子どもたちに大きな影響を与えていることを痛感しました。また、学校全体という視野を持てなかった自分の力量不足も反省の材料となりました。

 

朝の読書にも関係することですが、学校全体で「本を読もう」という雰囲気を作り上げていくのも、管理職の関心の度合いが大きく影響すると思います。要するに、教師が考えていること、日常的に行っていることが子どもたちのものの見方・考え方にも大きな影響を与えているということです。もっとも、見方を変えれば、校長がこうしたいという願いを持って、部下職員にそれを浸透させていけば、校長が理想とする学校ができる道筋がだれにも開かれているということです。そんな理想の学校を目指して、目の前の現実と向き合いたいものです。

2013年10月20日日曜日

隠れたカリキュラム

 カリキュラム続きで・・・

 私たちは往々にして「見えるカリキュラム」しか見ませんが、子どもたちが学校で学んでいることの多くは見えにく「隠れたカリキュラム」の方です。

 「見えるカリキュラム」の代表は、なんと言っても教科書です。
 よく見えるので、それをカバーしていれば、教師は(管理職も、教育委員会や文科省も、保護者も、そして子どもたちも)安心できます。その大半が、忘れ去られる運命にあることは誰もがうっすら気づいてはいるのですが・・・「自分は少なくともカバーした(教えた)。学べなかったのは、子どもたちの責任だ」と添加することで納得もできます。

 しかし、カリキュラムとはやっかいなもので、「子どもたちが学校にいる間に、体験したり、学んだりすることの総体」です。その中には、多分に学校側が意図しないものも含まれてしまいます。(従って、意図したものが「見えるカリキュラム」で、意図しないものが「隠れたカリキュラム」とも言えます。)

 「隠れたカリキュラム」の方は見えない、ないし見えにくい分、注意しないとその存在すら気づけません。しかし、子どもたちに与える影響は、おそらく「見えるカリキュラム」の比ではありません。

 隠れたカリキュラムの中には、
     ある教科への苦手意識の芽生え
     いじめの存在
     習熟度別指導
     一斉授業や個別学習中心で、グループ学習が行われない
     校長や教師たちは「思いやり」や協力の大切さは強調するのに、実態としてそれらをモデルとして示せていないことを子どもたちが見抜いている
などなど、あらゆるところに存在し、しかも、それらの多くは「見えるカリキュラム」とコインの裏表の関係にあるというか、問題の原因が「見えるカリキュラム」にある場合がほとんどです。要するには、現行のカリキュラムが、小学校であれ、中学校であれ、高校であれ、大学であれ、単純すぎるし、退屈だし、おもしろくないし、意味も自分との関連も感じられないという問題です。そのようなものを一日中そして毎日押しつけられて、教師の思うように振舞っていればいいと言われても、それは無理だし、反発する生徒がいてもおかしくない状況をつくり出していると言ってもいいわけです。

 さらには、そういう状況を感知して、対応できない教師集団ないし教育制度という問題にも至ります。

 「見えないカリキュラム」に興味のもて方は、いい学校のつくり方について書いた『いい学校の選び方』(中公新書)の第Ⅲ部、とくに147~155ページを参照ください。いまでは、「見えないカリキュラム」ないし「潜在的カリキュラム」で検索すると、相当数の情報が得られます。

2013年10月13日日曜日

カリキュラムも教科書も手段

カリキュラムも、教科書も、学校経営も、教員研修も、あくまでも手段です。

では、目的は何かというと、子どもたちが、教師が、保護者が、地域が、社会が、ハッピーになり、学び続けること。

その手段であるものが、目的化してしまうことは本末転倒。
そういえば、そもそも「子どもたちのため」にある学校が、「大人のため(教師のため)」だったり、「文科省や教育委員会のため」に、いつの間にか摩り替わっている現実もなきにしもあらず、です。

授業の多くも、前にも書いたように、子どもたちのために行われているというよりは、教師のため(主役が誰になっているのか見れば、明らかです!)だったり、教科書(=教育委員会や文科省や教科書会社)だったりしています。

「自分たちのため」と思って授業に出ている子どもはいったいどのくらいいるでしょうか? 

残念ながら、小学校から大学まで、「自分のため」と思えた経験を、私はもっていませんでした。あくまでも、「義務感」でそこにいたに過ぎません。従って、残っているものというか、身についているものも、思いつかないぐらいです。

この「ボタンの掛け違い」、なんとかできないものでしょうか?
「主従の関係の逆転」というか?

そもそも教えるものは何か? 教えられるものなのか? 
それをテストなどで測っていい(測れる)ものなのか? 
と、考えざるを得ないような気がしています・・・・

教える側からではなく、「ハッピーになり、学び続けるため」の側から考えることで。
それが、本来の教師、授業、学校の役割ではないでしょうか?


2013年10月6日日曜日

情報公開



学びの共同体においても、情報公開・情報共有が大切なことはもちろんです。

 いじめや体罰の問題でも、学校や教育委員会の情報隠しがたびたび問題になります。隠ぺい体質とよく言われていますが、よく考えると学校や教委だけの問題でもなさそうです。この国の近代・現代の歴史を振り返ると、官の「隠ぺい体質」は様々な場面で見ることができます。
 

 先週から「県民健康管理調査の闇」(日野行介・岩波新書2013)を読んでいるのですが、そこでもまた嫌になるくらいそんな場面が描かれています。この本は、福島原発事故の後の、福島県民に対する健康被害調査(特に、放射線からの影響)をある新聞社の記者が調査報道したものです。この健康調査検討委員会は20115月から開催されています。
 

私もこの委員会の活動には最初から注目していました。今振り返ると、その委員会に関する報道の内容はいつも「健康被害はない」「放射線の影響はチェルノブイリに比較して少ない」というものでしたが、個人的にはどうも信用できないという思いで受け止めていました。
 

今回この本を読むと、検討委員会の直前には必ず「秘密会」が開かれ、発言内容の調整が行われていた様子がわかります。県民の健康を本当に心配しているのならば、データをすべて公開するのが筋だと思うのですが、どうも「被害をなるべく過少に見せたい」「そうしないと観光や経済にいつまでも負の影響が残って、県の発展(復興)のためにはよくないことなのだ」という経済の論理が優先しています。県民の健康なくして、復興や経済の発展があり得るのでしょうか。
 
そう言えば、今の福島県知事は事故前には原発推進派だったのに、事故後は、あたかも自分も被害者のような顔をしています。ですから、この「県民健康管理調査の闇」という本の82ページにも「知事の希薄な存在感」という見出しで、検討委員会をめぐる問題で、すべて副知事任せにして、一言も発しないで会見から退席した様子が描かれています。

この筆者は「トップが何をどう考えているのか、ほとんど発信しない状態では、県民も、そして職員もどう考えたらよいかわからない」と綴っていますが、その通りです。まさに学校で言えば、校長が何を考えているのかわからない学校が迷走するのと同じ状況です。

 

こんなことを書いているうちに、あることを思い出しました。

それは、原爆のことです。「原爆と原発」は基本原理に関しては核分裂ということで同じです。原発は制御棒を利用して、核分裂をゆっくりと起しているだけです。
 

そのもう一方の原爆ですが、1945年広島と長崎に落とされました。アメリカ軍にも、そのあまりの爆発のすごさに心が痛むところがあったとみえて、事前に新型爆弾投下の警告ビラが何十万単位で空から日本国内にばらまかれていたそうです。それを当時の軍部は敵の謀略であるとしてすべて回収させていました。また、海外からの短波放送で、ポツダム宣言のことや原子爆弾開発の情報が流されており、当然軍部でもそれらの放送は傍受していたので、軍の一部の人間はすべて知っていたようです。しかし、全く一般の国民には知らされていませんでした。隠ぺい体質の最たるものです。
 

この国は、1945年から全く進化していないのでしょうか。戦争後、経済復興して、瞬く間に先進国になりました。しかし、様々な組織に巣食う「隠ぺい体質」からは自由になれていないようです。これは教育によって改善の見込みがあるものなのか、あるいは改善への別な道筋があるのかわかりませんが、これからも追究していきたい問題の一つです。