教室で哲学対話に取り組むことが増え、あらためてじっくりと学んでみたいと考えていました。近く、哲学対話について早稲田大学の山辺恵理子さんのお話をうかがう機会があり、その事前資料として、哲学対話のルーツを検討する文章を読むことになりました。そこでは、哲学対話の背景として、パウロ・フレイレの思想が参照されています。銀行型教育を批判し、学習者が現実の中から課題を発見し、生成テーマを手がかりに対話を通して世界を捉え直していくという、問題提起型の学びを構想していた点において、フレイレの教育論が哲学対話と深く重なっているからです。そこで予読として手に取ったのが、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』でした。読み進めるうちに、現在の教育と驚くほど深くつながっていることに気づかされました。
『被抑圧者の教育学』は、半世紀前に書かれた文章ですが、その読後感は古典というよりも、むしろ「今の教育をそのまま映し出している」と言ったほうが近いように感じました。本書が描き出した教育の構造が、形を変えながら、今も学校の中に存在しているからなのだと思います。フレイレが問題にするのは、教え込みや知識詰め込み型の教育が生み出す関係の歪みのこと。授業が「教える側の正しさ」を効率よく移し替える作業になったとき、子どもは学ぶ主体ではなく、内容を受け取る器として扱われるようになってしまいます。学びは次第に、理解の喜びや世界への驚きから離れてしまい、「できたか、できないか」「点が取れたか、取れなかったか」といった成果主義の尺度に回収されていきます。すると、成果に直結しないものやすぐに役立たないもの、評価の枠に入りにくいものは学ぶ意味を失っていきます。学びが「関連のあること」だけに限定されてしまうと、子どもは自分自身の興味や問いを育てる余白を奪われ、やがて興味そのものを失っていってしまうのです。
この構造を、フレイレは「銀行型教育」と呼びました。教師は知識を預け入れる側、子どもはそれを受け取って貯める側となります。知識は生きた経験や対話から切り離され、正解として保存されていきます。銀行型教育の問題は、知識の量が増えることではありません。知識を扱う人間関係が固定されることにあります。教師は権威として前に立ち、子どもはそれに追いつこうとします。子どもは「まだ足りない者」「教えてもらうしかない者」として自分を理解してしまい、この関係が繰り返されると、教室は安心して考える場ではなく、評価される場、間違えてはいけない場へと変わっていきます。その結果、子どもは沈黙していってしまいます。この沈黙は、単に発言が少ないということではありません。自分の言葉に価値があると感じられず、考えが途中のまま表すことを恐れ、不思議に思う問いを言葉にする権利を、自分から引き下げてしまう状態のことです。沈黙が広がる教室では、自己肯定感は弱まり、批判的思考も育ちにくくなります。ここでいう批判とは、誰かを否定することではありません。いまあるものを問い直し、別の可能性を探る力のことです。問いを口にできない場では、その力は育ちようがありませんね。フレイレは、教育が抑圧的な社会を再生産してしまう危険性を強く指摘します。教室の沈黙は、社会の沈黙とつながっているからです。選挙前にこの本に出会えて、本当によかったと思うのです。
これに対してフレイレが提示するのが、民主的な教育であり、その中心に置かれるのが対話です。対話とは、互いの経験や言葉を尊重しながら、世界を共同で読み直していく営みのことです。教師がすべてを知り、子どもが受け取るという関係をほどき、教師も学び手であり、子どももまた教え手になり得る関係へと転換していきます。対話の場では、知識は預金のように蓄えられるものではなく、生活や現実と結びつきながら再構成されていきます。だからこそ、対話は子どもが自己肯定感と批判意識を取り戻す契機になります。自分の経験が語られ、受け止められ、別の視点と結びついて言葉になっていくとき、子どもは「自分には語る資格がある」「自分の言葉で世界に関われる、変えられるかも!」と感じ始めます。沈黙が破られるのは、勇気が生まれたからではなく、対話が成立する条件が整うからなのです。
フレイレのもつ思想の魅力は、対話を単なる方法としてではなく、力として捉えている点にあります。「対話的言語」は、社会を変革する力をもつと彼は述べます。言葉は世界を説明するだけでなく、世界の見え方そのものを変えていきます。見え方が変われば、何が問題で、何が可能で、誰と手を結べるのかが変わっていくからです。だから対話は、教育技法の一つではなく、民主主義の基盤なのです。現代の教室は、すでに社会問題と切り離せない場所になっています。経済的格差、分断や差別、環境問題、戦争と平和など、子どもたちは日々、多くの情報と様々な感情にさらされています。その意味で、学校が社会問題を積極的に話し合おうとしていること自体は、時代の要請だと言えます。ただし、ここで問われるのは「何を話すか」だけではなく、「どのように話し合うか」です。話し合いが正しい結論へ導くための誘導になってしまえば、それは別の銀行型教育になります。子どもが自分の言葉で迷い、葛藤し、他者の言葉に揺さぶられながら現実を読み直す経験が、失われてしまうからです。
フレイレの対話は、教育の中心を「結論」から「過程」へと戻します。その過程の中で、子どもは自分の言葉を持ち、他者の言葉に出会い、世界の複雑さに向き合う力を育てていきます。銀行型が沈黙を生むとすれば、対話は声を生みます。声が生まれる教室は、ただ賑やかな場ではありません。互いの経験を持ち寄り、問いを共有し、理解の枠組みそのものを編み直していく場となります。そこでは、教師の役割も変わります。権威として子どもを超えていく存在ではなく、問いを磨き、関係を整え、学びの共同体を支える存在になります。
子どもを動かすのは、評価や管理ではありません。「自分の言葉が届く」という実感です。
半世紀前に書かれたこの文章が、今も読み継がれているのは、フレイレの教育論が、単なる学校教育の方法論ではなく、人間の尊厳や人権の回復と深く結びついているからだと思います。その一方で、本書が独裁主義国家において発禁本とされ、焚書の対象にもなってきたという事実は、フレイレの思想が、教育を通して人間を再び主体として立ち上がらせようとする、きわめて政治的な力をもっていたことを物語ってくれています。フレイレが求めたのは、知識を効率よく教える教育ではありません。人が自らの言葉を取り戻し、対話を通して世界と関わり直していく、民主的な教育のこと。子どもに言葉を返すこと、沈黙を破り、対話を回復することは、学習方法の改善にとどまらず、人間が人間として生き直すための条件でもあります。教室で言葉が生き始めるとき、社会を変える力は、遠い理想として掲げられるのではなく、日々の学びの中で静かに、しかし確かに育ち始めるのだと思います。さて、選挙にいってきます。
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