街ではクリスマスソングが聞こえるようになり、今年もあと2ヶ月弱となりました。この時期、教室の中でこれまで続けてきた教育実践になかなか成果が出ずに、無力感を感じてしまい、あきらめてしまいそうな気持ちになってしまうことはありませんか。
ふりかえってみると、あと一歩、続けていくことが、もう少しだけ丁寧に続けていくことで、今ある教育実践から子どもたちと意味ある学びへとつながっていったことは数多くありました。けれども、授業の準備、学習の評価だけではなく、学校行事に終われ、さらには面談の準備など、ちょうど今が、しんどいとき。
そんなくじけてしまいそうなとき、どうしてこの仕事をしているのか、ふと考えてしまいそうなときにこそ、ぜひ読んで欲しい本があります。
中島岳史『思いがけず利他』(ミシマ社)2021
利他というと、他者のために尽くすこと、まさに教育職の原点。しかし、そう思えるほど、子どもたちへ尽くせるほどのゆとりが今ない。本当に子どものために、利他できているのか悩ましいところ。また、その利他の思いこそが、子どもたちにとってはありがた迷惑、つまり利己的になっていないでしょうか。
利他という言葉には、ある怪しさ、うさんくささがつきまとうと思えませんか。他者のためになることを尽くすことが、結果、自分への利益を呼び込む未来への投資といった考え(ジャック・アタリのいう合理的利他主義論への批判は本書P.5 P.160に詳しい)は、なにか「自分のために」他人に尽くすといったことはありませんか。それって、利他のもつ本質を捉えているのでしょうか。
私たちの教職は、子どもたちのために行っていることが、でもときに、自分の野心・欲望を満足させるための道具となってしまっていないでしょうか。
本書では、利他とは、自分のことを精一杯やることであり、自分の能力では及ばないことがあり、それに謙虚になることだと教えてくれます。その繰り返しで自分を育てつくり、その結果、偶然の利他をよびこむものなのです。その一例を陶器職人の窯変(ようへん)を例に語られます。
“東洋の陶器の鑑賞に偶然性が重要な位置を占めていることを考えてみるのもいい。陶器の制作にあたっては、釜の中の火が作者の意図とは、ある度の独自性を保って制作に与(あずか)るのである。そこから形に歪みができたり、色に滲み出たりする。いわゆる窯変は、芸術美自然美としての偶然性に他ならない(九鬼2012:242-243)”。本書P.174より
窯変とは陶磁器を焼く際、炎の性質や釉薬との関係で、色彩が予期しない色となること。しかし、この窯変は偶然に決して依拠しているのではなく、職人の長い年月をかけた修行と日々の鍛錬の積み重ねの上で、偶然を呼び込みます。蓄積された経験と努力のもとにやってくるのです。
人間の力では制御できない火の力によって化学反応が起き、思いがけない美が誕生します。自力の限りを尽くすことで、自力で頑張れるだけがんばってみることで、偶然の美を呼び込んでくるのです。
“だから、利他的であろうとして、特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯いきることです。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所でなすべき事をなす。能力の過信をいさめ、自己を越えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのです。本書P177”
これは、私たち教育者へ強力な励ましのメッセージとなります。だからこそ、なすべき事をていねいに続けることが今、必要なのですね。モチベーションがわかないとき、ちょっとこの仕事が辛くなってきたとき、そんなときこそ、これまで続けてきた日々の仕事、取り組み、声かけ、授業をていねいに向き合っていくこと。こういったことが、結果、子どもたちがなにがしかの学びを引き取っていくものなのです。
この利他観に立ち返ってみて、成果を求めようとするときはまだまだ修行が足りないものだと、ふりかえることがしばしばあります。日々、できることをていねいにこつこつと。誠実に生きること。教育の成果は、もしかしたら偶然なのかもしれません。
この本は、利他の本質に迫るために、落語「文七元結(自分も貧乏なくせに50両もの大金をスパッとあげてしまう人情話)」を引用したり、國分功一郎の中動態の話、はたまた宇多田ヒカルの楽曲「オートマティック」を例に、じつにダイナミックでトリッキーな展開となり、読者を全く飽きさせません。
秋の夜長、読書にふけってみませんか。「先生ってなんだろう?」と思いそうなとき、きっと、自分の教育実践をふりかえるヒントを与えてくれるはずです。
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