このブログでもかつて紹介されたことがあったと思いましたが、長田弘さんという詩人がいました。(残念ながら2015年逝去されました)
福島県出身で大学卒業後、詩人として活動し、1982年エッセイ集『私の二十世紀書店』で毎日出版文化賞、2000年『森の絵本』で講談社出版文化賞を受賞されています。
今月、筑摩書房から『読書からはじまる』という本がちくま文庫の1冊として出版されました。2001年にNHKライブラリーとして出版されたものの再刊の形です。
この本の中で、第1章「本はもう一人の友人」がまず印象的です。少し引用します。
「友人としての本」というふうにして本を考えるとき、まず考えることは、友人とはどういうものかということです。ここでいう友人というのは、友人というあり方のことで、どういうあり方を友人と言い、そしてそうした友人というあり方が、本というもののあり方において、どういう意味をもつのだろうか、ということです。
友人というのはその場かぎりではありません。「ずっとつづく」関係です。親しい、よく知っているという以上に、友人というあり方の根をなすのは、「ずっとつづく」ということ。
~途中略~
目の前に毎日の生活がある。その毎日の生活のもう一つそちら側にずっとつづくもの、自分の心のなかにずっとつづいているものとして、友人が存在する、ということです。
生きていく上で、実生活のなかでの友人はもちろんいるわけですが、それと同じように本が友人であるという視点はとても大切なものだと思います。親しい友人とは年に何回か実際に会って話をしたりするわけですが、本も同様に人生の折々に同じ本を読み返すことがあると思います。また、同じ本を読んでも、そのたびに新たな気づきや発見がありますし、いい本は一生の友人と言えるでしょう。
そのような友人としての「本」とどのくらいめぐり合うかというのも生きていく上での楽しみの一つではないかと考えます。子どもたちがそうした生涯の「友人」を持つことができるように先生方の働きかけが重要な意味をもつことになるのでしょう。「読み」に関しては、このブログでもこれまで何回も紹介されましたので、それらを参考にされるとよいでしょう。
これも今読みかけの本なのですが、『デジタルで変わる子どもたち』(バトラー後藤裕子・筑摩新書2021)にデジタルと紙の本はどう使いわけるのがいいのかという話題について、次のように触れていました。(同書138ページ)
読みの達人たちは、紙媒体、デジタル媒体のそれぞれの特徴を把握した上で、目的に応じて、両者を使いわけ、それぞれの有効なストラテジーを身につけていることがわかる。たとえば、ある現象の大まかな傾向をつかみたい時には、デジタル媒体でヘッドラインや写真をとばし見し、詳細な情報を正確に得たい時には、プリントアウトして、他情報へのリンクがあえてできない状況を作り、テクスト情報の理解に集中するなどである。こうした達人は、紙媒体、デジタル媒体の持つ特徴を有意義に利用して、情報を効率的に選別し、知識として蓄えている。(Hillesund, 2010)
こうした力がないまま情報過多のデジタル環境に放置されたままになっていると、子どもたちは学校教育で求められている読解に影響が出てくるのではないかと、著者は結論付けています。これから、小・中学校でデジタル教科書などが導入されるようになると、この問題は決して看過できないものとなると思われます。
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