先日、この4月から東京都や埼玉県、神奈川県などで教師としての生活をスタートさせた教え子たちと再会する機会がありました。たった数か月ですが、学生時代とは違った精悍な顔つきになった彼らの様子を見ると、仕事で鍛えられたくましくなったように感じました。
翻って、自分の初任時代を思い起こすと、真っ先に脳裏に浮かんだのは「授業日誌」のことでした。この日誌は毎日、その日の授業で気になったことやうまくいかなかったこと、生徒の様子で記憶に新しい残ったことなどを書き留めたものです。これは、自分で思いついて始めたことではなかったのですが(実は、学習指導主任の先生から書くように言われたのです)、いざ始めてみると書くことがいろいろと出てきて1年間続けることができました。その後、学級経営日誌なども付けるようになり、今から思うとあのとき「書きなさい」と言ってくれた先輩に感謝です。この「書く・記録する」ことはその後、教師を続けていくうえで大変役立ちました。
その「授業日誌」について昔読んだ本の一節を思い出しました。
『成長する教師』浅田匡ほか編・金子書房(1988)です。その第10章に「自分の授業を見直す」という箇所があります。そこでは、秋田喜代美氏の教師教育における省察(振り返り)概念に関する省察の三つのレベルが紹介されています。
(1)「いかにできたか」
(2)「なぜこの方法なのか」
(3)「何のために、誰のために(自分の)知識が使われているのか」「なぜこの教材なのか」「なぜこの場でこのような形で授業が成立するのか」
そして、このような分析が可能になるためには、「自分の授業を記述する」ことから「自分の授業から学ぶ」ことが必要になります。そこで、自分の授業を記述することから「授業日誌」を書くことが推奨されるわけです。
この論文で、日誌を書くことは二つの意味があると説明されています。
1つは、自分が覚えているエピソードを書くことで、必然的に先ほどの三つの省察レベルで授業を見直すことができるというわけです。もう1つは、自らが関わる出来事を書くことで、「自己」を書き記すことで、「自分の活動の細かいところまで注意が払われ、自己体験が強化され、拡大されることになる」ということです。
その本の中では、日誌の形式として、「日時」「具体的な状況」「対象とする子供」「状況の解釈や判断」「用いた手立て」「その手立てを用いた理由」などが紹介されています。
この書式については、やりながら改善を加えていくことで、自分の書きやすい形式が見つかると思います。
現在は、ディジタル時代ですから、この日誌もディジタルを利用して当然です。米国ではブログなどを利用することが一般的ですが、日本の場合はまだまだこのあたりのイノベーションについては遅れていますから、自分の置かれた場所で無理のない形で進めるのがよいと思います。また、新しいことをすれば、当然守旧派からは反発をされ、たたかれることになります。そのダメージがあまりにも大きければ、好きな教師の仕事も続けられなくなってしまうこともありますから、そのあたりはバランスをよく考えるとよいでしょう。
今後、「現状維持型」の教師から「イノベーション型」の教師へ、多くの先生方がそのように変わっていけばよいと思います。
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