2019年9月1日日曜日

問いを自分で立てるということ

社会の変化が人間の予測を超える進展をする中、我が国の学校教育は「主体的、対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)をキーとなるコンセプトにすえて、未来に備えようとしています。アクティブ・ラーニングという考え方は、大学教育の質的転換を求めた中央教育審議会答申(2012)⭐︎1 で登場し話題になりました。その後、「主体的、対話的で深い学び」という言葉に衣替えをして、初等中等教育に登場します。

新学習指導要領の実施を目前に控え、「主体的、対話的で、深い学び」の実現を目指した授業づくりの試行錯誤が始まっています。先日も、ジグソー活動⭐︎2 を取り入れた授業を見ました。異なる情報をもった学習者が、その情報を交換し合うことにより、協働で学び合い、一つの課題に対する答えを探ろうとする活動です。

ペアやグループでの話し合い、そして、それをクラス全体で共有するセッションなどがあり、活発に意見を交換していました。授業は良く練られていて、生徒たちもそれなりに意欲的に取り組んではいました。少なくとも、従来の知識伝達型の授業からは大きく変わりました。

しかし、生徒たちが本当に夢中になって、その活動に取り組んでいたかどうかについては、疑問が残りました。どうしても知りたい。どうしても学びたい。どうしても話したいというほとばしるような気持ちは感じられなかった。

結局のところ、教師が準備した正解に到達するための授業になってしまっていたのではないかと思います。

「哲学対話」⭐︎3 という手法に取り組んでいる河野哲也さんは、『じぶんで考えじぶんで話せる こどもを育てる哲学レッスン』という本の中で次のように述べています:

「大人や教師が考えさせたがっている問いをこどもに与えてしまうと、その瞬間から、こどもは大人が求める正解を探ろうとします。あるこどもたちは大人の期待に応えようとしますが、他のこどもたちは全く興味を失います。<中略>正解を知っているのは先生なのですから、他の生徒の話など聞く必要はありません。自信のないこどもは議論に参加せず、正解が出た後に先生と大勢に追従しようとします。そうして、クラスの話し合いは、少数のこどもと先生の間の正解に至るまでのやり取りに過ぎなくなります。そうしたやりとりは到達地点が決まっているので、根本的には無駄であり、結局、本気で取り組もうとするこどもはいなくなります。」(p.108-109)⭐︎4

子どもたちが、何らかの問いに真剣に向き合い、探ろうとする気持ちをもてるには、問いを子ども自身が立てる必要があるのでしょう。

子どもたちが本当に知りたいことなのか。子どもたちが本当に探りたいことなのか。子どもたちがより深く考え答えを見出したいことなのか。子どもたちの自発的な問いからスタートすることが、探究的な活動の第一歩になると言えそうです。

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⭐︎1 文部科学省(2012)『新たな未来を築くための 大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)』

⭐︎2 ジグソー法については、知識構成型ジグソー法の研究に取り組んでいる東京大学CoREF参照。https://coref.u-tokyo.ac.jp/archives/5515

⭐︎3 「哲学対話」に興味を持たれた方は、以下をご覧ください。
◯日本経済新聞社 「キセキの高校」 https://r.nikkei.com/stories/topic_DF_TH_19050800
◯小笠原 綾子「「なぜ?」を深掘りする「哲学対話」でイノベーションを」https://blog.timecrowd.net/tetsugakutaiwa-inovation/
◯梶谷 真司(東京大学大学院 総合文化研究科 教授)「考える自由のない国―哲学対話を通して見える日本の課題」https://www.projectdesign.jp/201601/ningen/002667.php

⭐︎4 河野哲也(2018)『じぶんで考えじぶんで話せる こどもを育てる哲学レッスン』河出書房新社

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