前回の吉田さんの記事について、コメントしたいと思います。折しも、学校は学年末の事務処理が行われている最中です。年度末に何をしたらいいのか、ということも併せて考えてみたいと思います。
まず、授業研究を校内研修の中心に据えている限り、教師自身が学ぶことを好きになれないという吉田さんの指摘がありました。
「私たちはどんな時によく学べるか?」や「学びの原則」や、さらにはライティング・ワークショップが成功する5つの要因を踏まえると、求められているのは「授業研究」=指導案検討=教材研究=研究授業ではないことは明らかです。
「授業研究だけを続けていて、本当に教師が学び続けられるのか」、という点ですが、ここは半分だけ賛成します。私自身、ある学校で「学びの共同体」を志向して、授業研究を中核に校内研修を5年間続けた経験があります。そのとき、正直なところ、4年目、5年目を迎えた時に、これ以上この形態を続けて果たして教師の学びが継続するのだろうかという疑問を持ちました。ある程度、先生方は授業づくりが上達しました。授業研究に面白さを感じて、意欲をもって取り組む職員もいました。しかし、全員ではありません。指導案検討というよりも、面白い教材づくりだけに意義を感じる人もいます。
『「授業研究」=指導案検討=教材研究』と吉田さんは書いていますが、後半の『指導案検討=教材研究』は必ずしも=で結べないところもあると思います。もちろん、単位時間の展開のなかで、指導案ももちろん頭にはあるのですが、どんな「教材」を作るかということに焦点化した作業もあります。ここはある意味、教師が授業を進めるうえでの中核でもあります。
私の専門教科は理科でしたので、単元の学習を効果的に進めるために、それにふさわしい自然の事物を探してくることに仕事の面白みを感じていました。このことも広く捉えれば、授業研究の一形態だと思いますが、教材の工夫、開発をすることが理科教師にとっては何よりも大切なことだと思います。
このことに気づいたのは、学校を6年間離れて、県立の科学館に出向していたときでした。展示品の制作や実験ショーのプログラムを作成する過程で、自然界のシステムの不思議さ、科学技術の面白さを味わうことができたからです。この6年間の前と後とでは、私の理科授業は全く変わったものになりました。出向後に学校に戻って、何よりも、教えている私自身が楽しくて仕方がないというのが実感でしたから。
つまり、学校全体で授業研究を研修として行うかどうかはともかく、個人レベルでは授業研究、特に教材研究は必要なものだというのが私の結論です。
ですから、吉田さんが指摘する「校内研修=授業研究」では教師自身が学べないというのは、半分だけ賛成なのです。残り半分は、やはり個人で、そこの部分はやるべきだと思いますし、経験の少ない教師にとっては学校全体でやってもらうことも多少必要だと言うことです。
ほとんどは教師自身が「しかたなく」というか、「当然のもの」としか思えないようなレベルの教材です。そして教師のそういう思いは、見事なぐらいに子どもたちにも伝わっています。その意味で、このアプローチで作られた授業は、みんなが「お付き合いする」レベルの授業になります。もっと悪く言うと、展開されるのは「授業ごっこ」というか「正解当てっこゲーム」です。それに長けた子どもたちもいますし、私も含めてですが、多くの子どもはその教科が嫌いになっていきます。
この指摘は残念ながらその通りだと思うことがよくあります。
ベテランの人でこのような授業をやっているとがっかりですね。ベテランほど、これまでの自分の路線を変更するのが難しいようです。
もちろん、授業研究=指導案検討=教材研究=研究授業の成功体験も、歓迎します。(すべてが、まずいはずはないので・・・・)
年度末を迎えるに当たり、ぜひ自分のこの一年間の活動を振り返って、成功体験だけでも再度確認してみると面白いと思います。こうすれば、いい授業ができた(教師自身が楽しくなるような)という事例を記録として残しておくことも大切です。この積み重ねが、単元の指導計画となって累積されることになります。これは、教師として大切な財産です。
「校内研修=授業研究」ではない研修のあり方は、私自身の課題でもあります。読書会などはその一例ですが、さらに一工夫できないものかと思案しているところです。
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