前回のTさんからの職員室に代わる学びのスペースをつくったという、とてもいいアイディアの中で、私がいちばん気になったのは「授業研究」です。(これは、20年ぐらい前から気になり続けています。)
教師が授業研究をしている限りは、いい授業を作り出すことはできないんじゃないか、と。
Tさんの学校では違うかもしれませんが、
授業研究=指導案検討=教材研究を意味します。そして、それは教科書をカバーする授業であり、単元をベースにした授業である場合がほとんどです。
しかし、教材ありき、指導案ありきで考えている限りは、子どもたちがよく学べないことを保証しているようなものです。主役は、子どもたちではなく教材であり、そして教師であり続けることを意味しますから。★子どもたちの学び方も、学ぶスピードも多様なのに。興味も関心もこだわりも違うのに。
これは、「私たちはどんな時によく学べるか?」を考えてみたら明らかです。「授業で学べた」と言える人は、皆無です。
それは、「学びの原則」をまったく無視して、授業を考え(研究し)、そして授業をしている場合がまだほとんどだからです。(「学びの原則」についてお知りになりたい方は、右側のアドレスに資料請求してください。喜んでお送りします。)
「私たちはどんな時によく学べるか?」や「学びの原則」や、さらにはライティング・ワークショップが成功する5つの要因を踏まえると、求められているのは「授業研究」=指導案検討=教材研究=研究授業ではないことは明らかです。
そして、これを校内研修/研究の中心に据えている限りは、先生たち自身が学ぶことを好きにもなれないとも思います。
扱う教材が、教師が心底好きで、価値を見出していれば、話は別とも言えますが、ほとんどは教師自身が「しかたなく」というか、「当然のもの」としか思えないようなレベルの教材です。そして教師のそういう思いは、見事なぐらいに子どもたちにも伝わっています。その意味で、このアプローチで作られた授業は、みんなが「お付き合いする」レベルの授業になります。もっと悪く言うと、展開されるのは「授業ごっこ」というか「正解当てっこゲーム」です。それに長けた子どもたちもいますし、私も含めてですが、多くの子どもはその教科が嫌いになっていきます。なんでこんなものを学ばされるのか皆目わかりませんから。要するには、卒業するために、そしてテストでそれなりの点数を取るために暗記をして、テストが終わったらほとんどを忘れる、という偉大なる悪循環を続けるだけです。覚えませんし、身につきませんし、使いこなせません。「そういえば見た記憶はあるかな」という程度のことばかりです。それが、授業研究=指導案検討=教材研究=研究授業が生み出しているもの、と言えるのではないでしょうか。
自分たちがしていて楽しい、意味を感じられる、「授業ごっこ」のための準備ではない、教師同士の学び合いの事例をぜひ教えてください。
もちろん、授業研究=指導案検討=教材研究=研究授業の成功体験も、歓迎します。(すべてが、まずいはずはないので・・・・)
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