https://projectbetterschool.blogspot.com/2023/11/vs.htmlでは、六つの理論(=生徒がよく学べ、学んだことが身につく授業の原則)の四つを紹介したので、今回は残りの二つです。
⑤ 教えることは足場をかける(生徒に適切なサポートをする)ことである
ほとんどの場合、学校外での学習はコミュニティーのメンバー間の継続的な協力が必要となります。より多くの知識をもったメンバーが、新しい学び手にとって価値があると思える活動に、本格的に参加できるように支援をしています(『歴史をする』66ページ)。
この具体例として、幼い子供が話せるようになることと、医師になるために長期間の実習を受けるなどの例が紹介されています。
伝統的な仕事(農作業、料理、キルトづくり、狩猟)や現代的な仕事、またスポーツや芸術などの仕事にかかわらず、通常、学習は一種の見習いのようなものであり、初心者が少しずつ専門知識を身につけることができるように、より知識の豊富な人が「師匠」ないし「よき先輩」として手助けをしています。熟達者は初心者に「足場」となる枠組みを提供しているのです。
残念ながら、生徒は学校でこのような継続的な相互作用に参加する機会がほとんどありません★。ほとんどの場合、教師が情報を伝えている間、生徒は耳を傾けることのみが期待されています。参加方法も、通常は教師が質問し、生徒が答え、教師がその答えが正しかったかどうかを伝えるといったパターンにかぎられています。つまり、その目的は生徒の記憶力を評価することであり、生徒が興味のある問いや課題に対する追究を助けることにはなっていません。もちろん、生徒に自主的な課題が与えられたり、「探究する」ことが期待されたりする場合もありますが、学習(ないし探究)のプロセスをどのように進めていくかについては教えられていません。
教師なら誰もが知っているように、探究していくのに必要とされるスキルをもっている生徒はほとんどいません。探究心は教育に不可欠なものですが、単に課題を与えただけでは意味のある結果は得られません。ほとんどの生徒が自分の経験を最大限に活かすための直接的な支援が必要なので、教師のもっとも重要な責任は、生徒が学習するために必要な枠組み(足場、サポート)を提供することとなります。(中略)生徒は、学びを支援してくれる教師や知識の豊富なクラスメイトと一緒に活動することで最高の学習ができるのです(同、67~9ページ)。
ここでは、四つの足場=サポートの仕方が紹介されています(同、69~72ページ)。
第一に、教師は生徒が課題に興味をもつように努める必要があります。もともと好奇心が旺盛な生徒ですが、教師が生徒の興味を引き出し、維持するように手助けをすれば、彼らは探究を続けるようになります。
第二に、生徒が課題に取り組む際、教師は生徒を積極的に支援し、励まし続ける必要があります。この支援には、課題を生徒が自ら管理できるように分けて示すことも含まれます。
第三に、教師が手順のモデルを示すことです。先に述べたように、生徒が「歴史をする」ためには、教師はそれがどのようなものであるかを見本として示さなければなりません。教師の「読み書き」をまねようとするとき、教師が読んだり書いたりする様子を生徒は見なければなりません。それと同じく、教師が歴史の問いに取り組んだり、情報を収集したり、一般的なケースを引き出したりする様子を生徒は見る必要があります。ある課題を生徒がうまく達成するためには、教師はそのモデルを見せなければならないのです。もし、生徒がモデルを見ることができなければ、自分が行うべきことが分からないでしょう。
第四に、教師は生徒のパフォーマンスに対してクリティカルなフィードバック★★を与えなければなりません。自分の作品が理想的な作品とどのように違うのかについて理解させなければならないということです。
このようなフィードバックがなければ、多くの生徒は自分の課題が成功しているかどうかを知ることができません。これらすべての形態における「足場かけ」の最終的な目標は、生徒が学習計画を立て、自分自身の進歩を客観的に把握できるようにすることで、教師から生徒へと学習の主導権を移し、「自立した学び手」にすることとなります。このような能力は、「メタ認知」と呼ばれることもあります。
① 建設的な評価で、生徒の学びが絶えず修正・改善され、教師の授業もよくなり続ける
「評価」「評定(成績)」「テスト」の三つは、多くの教育者にとって(生徒にとって)も教育に関する専門用語のなかでもっとも不快な言葉です。(中略)教師の多くにとっては、評価をすることではなく生徒の支援をすること、つまり本書で取り上げているような形成的に「足場かけ」をすることこそが、「真に教えることとはどのようなことなのか」というイメージを与えてくれるのです★★★。好意的な見方をしても、評価というものはユニットの最後に付け加えられる「必要悪」であり、それらを足すことで通知表の評定を決めているにしかすぎません。そして、最悪の場合、教師と生徒の間の良好な関係をその評価が台無しにする可能性もあります。
そのような評価を続ける必要はありません。評価とは、不愉快な【おまけ】のようなものでなく、有意義なものであり、信じられないかもしれませんが、時には教えることと学ぶことの中心にある一連の実践であり、楽しい仕事になり得るものなのです。★★★しかし、このような高尚な期待に応えるためには、私たちが通常想像しているものとは異なる役割を評価が果たさなければなりません。
教室での評価の第一の目的が成績表の評定をつけることだとしたら、生徒も教師もそこから大きな恩恵を見いだすことはできないでしょう。また、生徒のニーズではなく成績表が評価の形を決定している場合は、課題が生徒をつまずかせ、生徒が知らないことを明らかにさせて、成績を正規分布に近づけようとする試みとなるでしょう。生徒の選別にこだわることは、生徒の知識や理解不足を明らかにすることを目的としたものでしかなく、事実上、否定的な経験になることを保証してしまうようなものです(同上、72~4ページ)。
しかし、このまま続けることは誰にとってもよくありません(受験産業は、儲け続けられるので、いいかもしれませんし、国にとっては、国民総生産の数字を上げるのに役立つかもしれません。しかし、実際にやり続けることは、真の意味での学びが極めて希薄な「点取りゲーム」だけです!)。
生徒がよく学べ、学んだことが身につく授業においては、評価の特徴を次の四つと捉えています。
第一は、評価は建設的であることです。「建設的な評価」とは、何よりもまず建設的な目的を果たすこと、つまり教えることと学ぶことに有益な効果をもたらすことを意味し、評価課題は、知らないことよりも知っていることを生徒に明らかにさせるものです。(そして)生徒が知っていることを生徒自身が可能なかぎり多くの方法で示せるようにすることで、それは行われます。具体的には、フォーマル・インフォーマルな測定、教師と生徒の両者が選択した課題、話すこと、書くこと、その他の発表形式などとなります。
このように生徒と教師が一緒になって、学んだことを表現できるようにするための最良の手段を探しているとき、生徒は自らの可能性を最大限に発揮するチャンスが得られと感じて、自尊心が高まります。一方、教師は、生徒が何を知っていて、何を学ぶ必要があるのかについてより把握することができるようになりますので、教え方はより良いものになります(同、74~5ページ)。
第二は、生徒の状況をクリティカルに見抜くためには、生徒の達成度を把握するために複数の方法が必要となります。複数の評価方法を組み合わせることで教師は、生徒が知っていることやできることを把握する際に自信をもつことができます。生徒のことを知るためにもっとも有用な方法は、生徒との話し合い、生徒が書いたもの、そしてパフォーマンスによる表現ないしプレゼンテーションの三つとなります。(中略)複数の評価手段を使用することで、それぞれの生徒は知っていることを示す機会が得られます。このアプローチでは、生徒に選択肢を与えることも頻繁に行われます。たとえば、探究プロジェクトの結果を、小論文、ポスター、ビデオ、またはプレゼンテーションにするかどうかなど、生徒は評価の形式を選択することができます(同、75~6ページ)。
第三に、評価活動は現実社会と同じものでなければなりません。つまり、実際に地域社会や企業、学術分野で人々が行っている作業に近いものでなければならないということです。これには、教師以外の聞き役を事前に準備する必要があります。生徒の課題を見たり聞いたりするのが教師だけの場合、生徒は知っていることを発表しようとする動機が小さなものになります(教師はすでに答えを知っている、と思っているからです)。(同、77ページ)
第四に、第三の特徴を大事にすることは、もう一つの特徴の「評価することと教えることの一体化」★★★の側面を強調することになります。
伝統的に教師は、評価を教えたあとに来るものだと考えています。生徒に何かを教えて(あるいは、生徒自身がそれについて読んで)、それを学んだかどうかを確認するためにテストを行います。ほとんどの授業では、教えることと評価することを区別するのは簡単です。実際、学校では、この二つの局面を可能なかぎり異なるものにするために多大な努力をしていることがよくあります。
しかし、「評価することと教えることの一体化」している授業で教師は、生徒が話している間にメモをとったり、プレゼンテーションを観察したり、プロジェクトを見直したり、レポートを読んだりしますが、これらはすべて、つながっている学習評価の一部なのです。評価は常に行われているので、評価のために別の時間が設けられることはほとんどありません。(同上、77~8ページ)
★このような場が提供されているのが「作家の時間」「読書家の時間」(および、それらを社会科、理科、算数・数学に応用した「社会科ワークショップ」「科学者の時間」「数学者の時間」)です。http://wwletter.blogspot.com/2010/05/ww.htmlを参照。
★★「クリティカルなフィードバック」で一番効果的な方法は、生徒同士のピア・フィードバックでも使える「大切な友だち」(https://projectbetterschool.blogspot.com/2012/08/blog-post_19.html)です。
これを教師と生徒の間でしている場合を、作家の時間や読書家の時間では「カンファランス」と言っています。カンファランスの目的は、成果物や作品をよくするためではなく、書き手や学び手をより自立した書き手/学び手にするために行われます。クリティカルなフィードバックの最もいい形が『イン・ザ・ミドル』の第8章で描かれています。
★★★文科省が20年以上前に言いだして、いまだに実現できていない「指導と評価の一体化」です。『あなたの授業が子どもと世界を変える』の第8章に書かれている、「評価は楽しいものであるべき――そんなこと、ありえないでしょ。本当です。私たちは真面目です」も参考になります。この後の評価の四番目の特徴も参照。
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