2019年10月6日日曜日

自分の言葉で語ること、意味の創り手になること

皆さんは、小学校の英語の授業を見に行ったことがありますか。疑問点もたくさんあると思うのですが、面白いことも起きています。

少しだけ背景を説明しておきます。小学校に「外国語活動」という少し不思議な名前の授業が導入されたのは2011年度(平成23年度)でした。英語に慣れ親しみ、コミュニケーション能力の素地を作ることが目的で、5、6年生が対象。週1回の授業で簡単な会話や歌、ゲームを通して英語に触れることが重視されています。ただし、これは正式な教科ではなく、テストや成績評価はありません。教員が、外国語としての英語を指導するトレーニングを受けていないことも一つの理由でしょう。2020年(令和2年)度からは、5、6年生が正式な教科となり、3、4年生が外国語活動の授業を受けることに決まっています。

しっかり、母語の基礎を固めることが先決だという意見は根強く、外国語を早期に導入することへの賛否の議論は、止むことなく続いています。

私も、2011年以降、たびたび小学校の外国語活動の授業を参観しています。最初の頃は、先生方も手探りで、よちよち歩きだったように感じましたが、最近、覚悟ができてきました。実に楽しそうに、生き生きと、子どもたちと英語を学んでいる先生が多くなってきました。

最近は、小学校の英語の授業の方が、中学校より面白いと感じることがよくあります。

なぜなのでしょうか?I can(私は〜ができる)を扱った単元で比べて考えて見ましょう。

中学生の場合だと、だいたい生徒たちが言うことは予想できるのです。決まり切った内容しか出てこない。I can play the piano. I can swim. I can play baseball.など、大体皆同じようなことを言うのです。語彙の限られていると言うこともあるでしょうが、何となく不自然さを感じてしまうのです。なぜでしょうか。話し手の意識が「I can を使って何かをのべる」というところに焦点化されているのではないかと感じます。

一方、小学生からは実に様々な「できること」が出てきます。勢い余って日本語が混ざってしまってもお構いなしです。先日、訪問した小学校の子どもは、"I can touch semi." (私、蝉に触れるんだ。)と得意げに語ってくれました。授業の最後の振り返りでも、「Aくんは納豆が食べられる。信じられない。」とか、「Yさんは、一輪車の乗れる。羨ましい。」とか、できること、羨ましいこと。誇らしいこと。楽しいことが出てくる、出てくる!この場合、話し手の意識は、I can..と言う言語形式ではなく、「自分にできること」にあるのです。

この違いは大きいですね。ある程度長い歴史がある中学校の英語教育が、どちらかと言えば言語の「形式」にとらわれてしまいがちになっている一方で、かなり後発と言える小学校の外国語活動の方が、「意味」に焦点を当てて、生き生きとした発言を引き出している。

教科書に隷属することに強い警鐘を鳴らしている Lent(2012、この本は来春に翻訳出版予定です)に次のような一節があります:

「多くの生徒が、何かを知りたいという気持ちもなくテキストを読んでいる。教師を満足させるために情報を探す。プリントの空欄を埋めたら、次のページへ進む。夢中になれず、内容が退屈であることは分かりきっているのに。」(“Too many students read the text without any sense of needing to know; they find enough information to satisfy the teacher, or to fill in the blank on the worksheet and continue to the next page, unengaged and more convinced than ever that the content is boring.”) 

学校が、主体的な学びを創り出しているかどうかの見極めには、生徒が意味の創り手になっているかどうかという視点が必要になるのではないか。さもないと、形式だけの退屈な学習を繰り返すだけの授業に陥ってしまうかもしれません。

[文献]
ReLeah Cossett Lent (2012) Overcoming Textbook Fatigue – 21st Century Tools to Revitalize Teaching and Learning, ASCD, p.24.

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