以下は、K先生が送ってくれた『算数・数学はアートだ!』の感想です。
本に書いてあることから、いろいろ大切なことを考えてくれています。
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良い本をありがとうございました。
以下数か月前に書いた感想です。
昼から少しビールをあけて、ほろよい状態で本を読み終わりましたので、雑感を書いたら、変な文章ができあがりました。
僕が最も印象に残った言葉は、
「大切なことはあなた自らすることです。
絵画は、美術館に飾られているものではありません。
あなたが描くのです。」
です。
この本の物語の終わりにあるからでしょうか。
社会科こそ、美術館ではありません。現実生活です。
歴史はまさにそう。歴史は博物館に飾られているものではなく、
資料に自分の解釈を重ね、歴史の物語を自分の手で紡いでいくことに意味があるのかもしれません。
(かといって、戦争はなかったと子どもが言ったら、僕はどのように対話をするのでしょうか。まったく分かりません。とにかく、その子の話を聞くしかないでしょう。)
たとえば
算数ならば、教えられる基礎的な算数の技術をもっていなければ、算数を主体的に創造的に楽しむことが出来ないのでしょうか?
そもそも、算数を主体的に創造的に楽しむということが、どのようなことなのかをこの本を通じて初めて触れられたように思います。
学び手が主体的になるというマインドを、巧妙に狡猾に、忘れさせるプログラムが周到にしかけられているのでしょうか?
正しいとされることを、しっかり模倣できることを是とする学校です。
あいさつが正しいとされれば、おかしな状況下においてもあいさつを行い、「その状況であいさつっておかしくない?」と言えない空気があります。
朝会が終わって、退場の曲がかかり、行進して退場することに、激しく違和感があるのですが、僕自身もそのようなことを話題に出そうとも思いません。
正しい字の書き方があるとし、書写の時間でしっかり書写を行います。
運動会の表現運動(ダンス)は、教師の思い描く正しいとする動きをしっかりと子どもたちに伝達して、しかも、やり終えた時に充実感を感じて、それが教師の言うとおりに努力したから充実感があったのだということを刷り込んでいきます。
主体者意識を取り去ろうとする体制
主体者意識を取り戻そうとするエネルギー
せめぎ合っています。
教師は教室の中では管理者です。学級崩壊で管理者としていられなくなる状態を、本当に怖がっています。学級崩壊恐怖症なんです。
それは、子どもたち一人ひとりが自立し、お互いが高め合って、協働し、尊重しあっている空間づくりの裏の顔が、学級崩壊なのかもしれません。
管理者としての、社会・学校・教師から、自立しようとするエネルギーが暴発した姿。
だったら、子どもは幼いままの方がいい。自ら環境を作り出していく子どもを、今の学校や教室、社会制度は、受容することが出来ません。
正しいとされる方向に、愚直に進んでいく姿のほうが美徳と教え、批判的思考を受容する余裕はないのです。
算数の中にも、国語の中にも、学校生活の中にも、巧みに主体者意識を削いでいく構造が隠れています。小さい箱のなかで、整然と並べられることに適応できる子どもを育てていっているわけです。学力とは、箱を再創造する力を指すことはないでしょう。
愚民の方が平和なのでしょうか? 国として成立するのでしょうか?
ルネッサンス、諸子百家は、宗教戦争や春秋戦国時代の中から生まれてきたもの?
平和と多様性は、水と油なのでしょうか?
僕は多様性の中でこそ、力強い平和が築けるように思います。
学校がその模範を示していきたい。
以下は余談です。
むすめは、毎回パックに入っているいちごを、家族(もしくはおじいちゃん・おばあちゃんも含めて)が喧嘩をしないように分けるという問題が与えられます。昨日は、5人メンバーがいたので、いちごを1個ずつお皿に入れて、最初は5等分したのですが、せっかく分けたいちごをおじいちゃんからいちごを要らないと言われ、また、傷んだいちご3つともおばあちゃんが食べるといい、余ったいちごを欲しがった人は5人中3人で、といろいろな不確定要素が加わり、結果的にいろいろな調整を踏まえて、5人のいちごの数はバラバラですが、みんなが満足するように分けられたと言う話です。むすめは、迷いながら笑いながら、算数を楽しんでいました。そして、美味しそうにいちごを食べていました。
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