2013年1月27日日曜日

デジタル社会の学び


ここ数日、「デジタル社会の学びのかたち」(A・コリンズ&R・ハルバーソン著・稲垣 忠編訳、北大路書房)を読みました。

最初に「日本語版への序」という部分があるのですが、次のような文章がありました。

 

「新しいテクノロジは、これまでの学校のあり方に疑問を投げかけています。何世紀にもわたり、教育とは、専門家や知識、スキルに対するアクセスが制限されていること、つまり情報の欠如によって定義されてきました。」(同書・日本語版への序�)

 

まさにその通りです。これまでは学習者は勝手に知識にアクセスできず、必ず教師という先導者がいて初めて知識にふれることができたわけです。ですから、教師の教え方も当然「教授型」となるわけです。しかし、インターネットを始めとして、コンピュータの進化によって、様々な知識のデジタルアーカイブにだれもがアクセスできるようになった今、教師の手を経ずしても「知識」はだれにとっても手の届く存在になったわけです。

 

でも、学校はなかなか変われません。

 

「生徒たちは、自分自身の関心より、学校の教育内容は価値があるものだと信じることが求められています。」(同書・日本語版への序�より)

 

 「何のために学ぶのか」が納得できないまま、受験のために必要だからというような理由で多くの生徒は授業に向き合っています。

 

「一方、新たなテクノロジは、子どもたち自身の手で学習環境をつくり出すことを促します。」また、こうも述べています。

「一方で新しいメディア・テクノロジは、学習者一人ひとりのニーズ、目標、スタイルを支援します。」(同書・日本語版への序�・�より)

 

 要するに、これまで教師主導の教授型授業の時代は、すべて教師のおぜん立てによる授業で済んだのかも知れませんが、コンピュータというテクノロジが入ってきたことにより、いやでも授業スタイルは学習者主体に変わらざるを得ないわけです。ただ、一つ危惧することがあります。

 もし、この新しいテクノロジを基礎・基本の定着と称して、ドリル型の授業で知識を詰め込むために使うのだとすると、何も変わらないことになります。

 このあたりのことを同書は次のように分析します。

 

「多くの教育現場で説明責任のプレッシャーの増すなかで、スキルの練習と、必要とされる学習内容をカバーすることに、労力の大半が費やされています。伝統的なスキルと内容理解を測定することばかりが強調されているところで、イノべーティブな授業実践が広がることはないでしょう。」

 

 この分析もその通りでしょう。かつて、ラリー・キューバンという教育社会学者が1990年代のアメリカでのコンピュータ教育の実態調査を行って、結局はコンピュータという技術革新が教室の学びを変えることはなかったと結論付けています。

 

 ここしばらく、例のPISA調査以来、単なる知識の獲得だけでなく、知識を応用する、いわゆる「活用型授業」が教育現場には求められています。

ここで、コンピュータを道具としてどう使うのか、学校としてしっかりと見通しをもって、実践していきたいものだと思います。

それには、管理職の教育ビジョンのなかに、「デジタル社会のなかでの学びの形」を具体的に入れ込む必要があります。もちろん、このようなデジタル機器について、自分は不得手だからと背を向けてしまうのではなく、得意な教師を係担当にして、その人をうまく使えばいいわけです。何でも自分でやる必要はありません。方向だけ示して、後は任せればいいのです。そうすれば、任されたほうもやりがいをもって仕事に取り組むことができるでしょう。

 

 

 

 

 

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