今週は、『日本人は「やめる練習」がたりてない』(野本響子・集英社新書2019)を紹介します。
まず、92ページ「日本の学校は「我慢の練習」をするところ」。
日本の学校は「辞める練習」は教えてくれない。では、教えていることは何かといえば、「我慢の練習」なのではないか。あるいは「自分がやりたくないこと」や「非効率なこと」に耐える練習だ。
日本の学校の勉強に対し、「将来何の役に立つの?」と思ったことはないだろうか。自分自身、高校生活の最後に半年ほど受験勉強をやってみて思ったのは、「これはこういう種類のゲームなのだ」ということだった。一見無駄に見える知識を効率的に覚えるというゲーム。だから、英語も数学もかなり非現実的だ。
この後も日本の教育の現実社会と遊離した学びの実態がつづられていますが、このブログをお読みの皆さん方はその内容に関して、おおよそ見当がつくと思います。要は、この「我慢レース」の勝者がいわゆる日本で言うところの一流大学に入り、大企業や官庁に就職するというしくみ。このレースがほとんど世界に通用しなくなってきていることは、国際社会でのこの20年間の日本の様々な面での凋落ぶりを見れば明らかです。従順な労働者を社会に送り出すという以前の教育のあり方が根本的に問われているわけで、そのための変化が求められています。
もう一つ、88ページから。
一斉に入学し、一斉に卒業し、一斉に就職する。入学して途中で辞めると、受け入れ先の選択肢が極端に少なくなり、多くの場合は不本意なところでも行かざるを得なくなる。こうした社会では学校ですらトライ&エラーができない。
今、読んでいる本の中に、学びの途中でよくできなかったら「もう一度やり直す」という選択肢が紹介されていましたが、まさにこの「もう一度やり直す」ということが、もっと当たり前になるとよいのです。生涯学習と言いながらも、一度既定の路線から外れた人たちの受け皿があまりにも少なすぎます。
小・中・高等学校の学びのプロセスで、「やり直す」という選択肢をもっと広げてよいように思います。
不登校、いじめ、暴力行為なども選択肢の少ない、ストレス一杯の学校社会が作り出していると言っても過言ではありません。それを「道徳教育がきちんとなされていない」からと教科化してみたり、時代の要請だからと、次々に新たな教育内容を盛り込んだりと、この国の教育は方向性を間違えているとしか思えません。
上からの改革が望み薄ならば、やはり現場からの改革しかありません。ただし、一人ひとりの力には限界がありますから、つながりが大切になります。そして、個々の与えられた場所で、「自分にできることは何でもやる」ことです。そのためのネットワークづくりに一層心していきたいものです。
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