2016年3月6日日曜日

関係と誠実が鍵

バルセロナオリンピック野球日本代表監督(銅メダル)・山中正竹氏が、野球殿堂の特別表彰を受けたのを機会に、インタビューを受けていたのをラジオで聞きました。その中で山中さんが強調していたのは、選手たちとの間の「関係と誠実が鍵」ということでした。

まったく同じことが、校長にも、教師にも★言えるのではないでしょうか?

以下は、いま翻訳している『A Mathematician’s Lament(ある数学者の嘆き)』★★の46ページに書いてあることです。(太字は、原書にはありません。私が今回の内容に関連すると思ったところを分かりやすくするために太字にしました。そして、これも原書にはない斜体にも気づいてください。とても大切なことです。)

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 もし教えることが単なる情報の伝達になってしまったら、もし興奮とワクワク感がなかったら、もし教師自身が情報の受身的な受け手で、新しい考えの創出者ではなかったら、どんな期待を生徒たちにもつことができるでしょうか? もし教師にとって、分数を足すことが単なるルールに過ぎず、創造的な過程の結果でも、選択や期待の結果でもなかったら、その教師の生徒たちもまったく同じことを味わうことになるでしょう。
 教えることは、情報ではありません。それは、自分の生徒たちと誠実で理性的な関係をもつことです。それには、方法も、ツールも、トレーニングも必要ありません。ただ誠実であることが求められます。もし誠実になれないなら、素朴な子どもたちに何かをさせるような権利はありません。
 誰かに教え方を教えることはできません。教育学部の存在自体が完全なるまやかし★★★です。もちろん、幼児期の発達などについての授業を受けることはできますし、黒板の効果的な使い方や指導案の書き方のトレーニングを受けることもできます(ちなみに、指導案は事前に計画するものなので、見せ掛けであることを約束したものです)が、もし誠実な人間になれないなら、誠実な教師になることはできません教えるということは、心が開かれており、正直であること、そして興奮や向学心を共有できることを意味します。これらがなかったならば、世界中の教育の学位をもっていても助けにならず、もしあったならば、逆に学位は必要ありません。
 とても単純なのです。生徒たちは、宇宙人ではありません。彼らは、美しさとパターンに反応し、誰もが好奇心をもっています。話してみればいいのです。そしてより大事なのは、彼らが言うことに耳を傾けることです。

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以上を読まれて、どんな印象をもたれましたか?

教師がモデルで示せなくて、人間性など育めるはずがありませんから。
(もちろん、それは、教師たちがどう接せら/遇されているかの反映なわけですが。★)


★ もちろん、教育委員会や文科省の人たちにもです!
★★ 日本での出版時には、『算数・数学はアートだ!』になる予定です。
★★★ 誤った前提によって存在しているもの、という意味。



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