教師の発言でもっとも聞かれることの一つが、「教えたのに、覚えていないの?」です。
多くの教師は、教科書をカバーして、その内容を子どもたちに伝えることが教えることと捉えています。
少し熱心な教師は、単に伝えるのではなく、子どもたちに考えさせたり、発言させたりする努力をしているかもしれません。
しかし、それらをしたところで子どもたちが学んだこと、ないし理解することとイコールではありません。(近々翻訳出版される『理解するってどういうこと?』(新曜社)が参考になります!!)
私が教育に関わり始めて最初に(30年以上前のことですが)気づいたことの一つは、「子どもたちが学べる形で教えることのできる先生がいかに少ないか」ということでした。それは、教材研究をして、教師(教科書?)が教えたいことを教えている限りはなかなか難しさを伴います。対象である子どもたちが抜けたままですから。
そこで、先生たちが「説明責任」のレベルで教えるのはなく、「結果責任」を果せる教え方を探し始めました。その過程で見つけ出したものの一つが、「学びの原則」でした。そして、それらをすべて満たしている教え方としてのライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップでした。
要するには、子どもたちが運転席に座る教え方です。教師は、助手席です。(これに対して、従来の一斉指導は、どう考えても、運転席に座っているのは教師で、助手席に座っているのは数人の子どもで、圧倒的多数の子はよくて後部座席ですが、ほとんどの場合は車から出てしまっている感じです。)大学でも、こういう授業がいまだに横行しているのではないでしょうか? 身体は教室の中にあっても、心というか頭は教室の外という授業が。
本来、子どもたちが学ばない限りは、教師が教えたとは言えないわけですが、どうも間違った捉え方が長年浸透しており★、その延長線上に「アカウンタビリティ」を「説明責任」と訳してしまう考え方も位置づけられています。(多分に、政治家や官僚の無知もありますが。)
それでは、校長などの管理職にとって、アカウンタビリティ=結果責任をとるとは具体的にどういうアクションを意味するのでしょうか?
教育委員会がアカウンタビリティ=結果責任をとるとは? そして
文科省がアカウンタビリティ=結果責任をとるとは?
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