「正しいことはそれをそのまま言えば、単純に伝わる」と思い込んでいる人が少なくないということです。(これは、親子関係でも、夫婦関係でも、極めて難しいことです。自戒を含めて、書いている部分があります。)
文科省は、教育委員会や学校や教師に対して、その姿勢を延々と崩していませんし、教育委員会は学校(管理職や教師)に対して、管理職は教師や生徒や保護者たちに対して、そして教師は生徒や保護者に対して、といった具合に、将棋倒し現象が続いています。
しかし、いかに正論や正解を主張されても、教育の何がよくなってきたでしょうか?
全体的に見れば、何も変わらないか、悪くなってきていると感じることのほうが多いのが残念ながら現状です。
アプローチのおかしさを感じる人はいないのでしょうか?
アプローチの転換が、前回の「大切な友だち」に凝縮されています。
特に、第4ステップに。
「大切な友だち」は、立場が上のものが諭す(話す)のではなく、まず聞くことからスタートします。
わからなかったことは、質問します。
よかった点は、たとえ些細なことでも、指摘します。いいところは、伸ばしてほしいですから。
そして、肝心のまずい(ないし改善が必要だ)と思ったところは、指摘も、改善案も提示しません。それをした段階で、大方はそっぽを向かれることは、これまでの経験が明らかにしてくれているからです。
答えは、自分で見つけてもらうというか、考え出してもらうことが、一番いい方法だからです。
上司から言われたら、ほとんどの人は従うしかありません。
従わせる代わりに、問いかけて、考えてもらい、自分なりにベストなアイディアを作り出してもらうということです。それができない場合は、同僚に相談するなり、自分にまた相談に来るかもしれません・・・・・
時間はかかるかもしれませんが、考え続けてもらい、自分で答えを見出した方が、正解を聞かされて受動的に行動するよりも、はるかに価値があると思えるかどうかです。
正解を提示することは、お腹のすいた人に魚をあげること。
自分なりの回答を見つけ出すための問いかけをすることは、お腹のすいた人に魚の釣り方を教えてあげることに相当します。
教育界全体が(教室の中で日々行われる授業も)、このシフトを求められているのではないでしょうか?
こちらがいいと思っていることをやらせるアプローチから、問いかけるアプローチに。
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