「作家の時間」や「読書家の時間」を社会科に応用した実践をしている冨田先生が最近書いてくれたことを紹介します。
子どもの主体的な学びを大切にした授業を実践する際に、「これでは教師が子どもの学習を把握できないな」と迷う場面があります。
子どもたちが、「読書家の時間」のように、自分で本を選んで読んでいる場合、
・何の本を読んでいるのか
・どんな内容の本を読んでいるのか
・どうやって読んでいるのか
・何を考えて読んでいるのか
これらを教師が把握できないという理由で、それは学校ではできないと判断してしまうことがあります。(この辺は、冨田先生自身が最初の2~3年間、従来の国語の授業と「読書家の時間」を行ったり来たりした理由です。詳しくは、『読書家の時間』の第10章を参照してください。)
今行なっている「歴史家の時間」でも、子どもが一人一人テーマを持って学んでいるので、
・どんなテーマで学習をしているのか
・どのプロセスにいるのか
・どんな発表を行ったのか
・40人の子どもが本気を出したら、全部把握するのはそもそも不可能
・子どもたち全員の学習を補足することは不可能
です。
それは当然です。40人の子どもたちが、学習に夢中になってペラペラ本を読み、がしがしノートをとって、各単位で熱い発表を繰り広げるので、教師は子どもたちの学習の全てを把握していません。狭い教室とはいえ、全ての子がロボット作業のように同じ学習をしないので、無理です。
では、そのような学習は、してはいけないのでしょうか。
子どもたちの学習活動量は、一斉指導と比べて半端なく多いです。困っている子にはカンファランスに入れますし、大体の子は、黙々と資料を読んでいるか、がしがしノートを書いているか、友達と情報交換をしているか、何かしています。
最近では、土器が教室にあるので、土器を食い入るように見つめたり、同じく教室にある雛人形を手にとって眺めたりしている子もいます。
大人一人が把握できる学習量で、子どもを収めてはいけない!
一斉指導は、子どもの学習を制約して教師が学習を把握しやすい状態にします。
子どもたちが全員同じ作業をしているので、ABCがつけやすく、Cの子の対応に入りやすい。
けれど、それは、教師が仕事をしやすいだけで、子どもたちには学びやすい環境になっているのでしょうか。
子どもたちが学習に熱中できる環境を作れているのでしょうか。
教師が見とれる学習というのは、逆にいえば、大人一人で情報把握できる学習活動以上には、子どもたちを学習させないということでもあります。
教師の掌からは、子どもたちを出させないということです。
自分が子どもを見やすいように、整列させて、行動規制をかけて、同じ作業をさせる。
教師が最も仕事がしやすいように、子どもたちをコントロールしているにすぎません。
しかし、子どもたちの本気の学習量なんて、大人一人の情報把握量を簡単に超えます。(教師もかなわないミニ・レッスンができる子が、ボロボロ出てきます!! 一斉授業は、そういう活躍の場も提供しません。)
そこで、子どもたちの頭を抑えようとするから、子どもたちの力が伸びない、学習に情熱を傾けられないように思うのです。
学習の分散化/非中央集権化を実現する必要があります。(まさに、脱『授業の見方』のアプローチです!)
子どもたちすべての学習を把握しようとするのではなく、効率的に子どもたちの学習に関する情報を得られるような仕組みを作りましょう。
そして、すべての学習を教師が評価するのではなく、相互評価や自己評価を組み入れて、総合的な評価が行えるような仕組みを作りましょう。
全ての学習を教師が評価をしようとするから、教師のフィルターを通らなければ学習が進められない仕組みになってしまい、子どもたちの学習が料金所の前の渋滞のように滞ってしまうのです。
学習の非中央集権化、分散化が、学習のステージを一段あげることになります。
私がやっている工夫は、教師が仕事をしやすい学習から、子どもが学びやすい学習へとシフトチェンジです。
具体的には、発表の相互評価と、発表のダイジェスト版の作成が柱です。
子どもたちが一週間に一回ぐらいの頻度で、全員がミニ発表(共有の時間)をするので、それを教師が全て見ることはできません。そこで、発表者のダイジェスト版と相互評価を行わせます。これで、教師が直接見ていなくても、発表内容の大体はわかります。そして、ダイジェスト版を作って評価する子も、要約する力や、良い学習を判別し評価する力が身につきます。教師が評価をしないというわけではありません。教師もできる限りグループを回って、カンファランスノートにメモをしたり、記録をとったりします。情報が足りない子や、気になる子には、マークして情報を集めます。しかし、人を評価するという力がつく学習活動を、教師が取り上げて、自分だけの仕事であるかのように振る舞う必要はありません。評価という学習において大切なプロセスを子どもにも委ねて、学習の責任をゆっくりと移譲していくべきだと思います。それが、学習コミュニティを作る、学習エコシステムを作るということです。
また、学習ログとしてジャーナルを書かせます。出口チケットという言い方もできます。
ジャーナルをつけることによって、教師は対面していなくてもカンファランスが可能になります。ワークショップで学習を行う際には、必須のアイテムになります。
私の場合は、現在のテーマと振り返りという形式です。テーマを育てることを大切にしていますし、テーマがどう変遷して、どう明確化していっているかが、子どもの学習を見る大切な視点になっています。(詳しくは、http://tommyidearoom.com/2018/04/29/post-1251/)
カルテのようなカンファランスノートを作る。
基本的なことですが、子ども一人一人の学習を記録するカンファランスノートは、必須です。閻魔帳とも言えるかもしれません。しかし、もっとポジティブなノートです。医者でいうカルテです。その子のためのこれからの戦略を書いたり、記録を保存したりするノート。
ポートフォリオは子どもが作る学習Facebookです。
今年度まだできていないのが、ポートフォリオです。いわば、子どもたちの学習のダイジェスト版です。Facebookは一人一人の活動の記録や思い出が貯まっているはすです。それを子どもたちが作ります。なので、ポイントは、一人一人ばらばらのポートフォリオができるはずです。ポートフォリオ・マネージメントの力を育てる必要もあります。
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以上です。冨田先生の実践のイメージ、つかめましたか? (冨田先生の文章をほとんどそのまま載せました!)
これからも、指導案、教科書、教師の行う評価などが、どれだけ教師を縛り、結果的に「子どもの学びの翼をへし折っているか」気づいていただけたでしょうか?★★
彼の実践を含めて、「作家の時間」や「読書家の時間」を社会科に応用した実践本の『市民/生活者/歴史家の時間』(タイトル未定)は来年あたりに出版される予定ですのでご期待ください。(同じアプローチで『数学者の時間』と『科学者の時間』も実践中です!)
★ 「自由な遊びが子どもの翼」は、冨田さんのアイディアで『遊びが学びに欠かせないわけ』のタイトルになるはずだったのですが、寸前で却下されました。「いまいちフック感が弱い」という理由で。今回のタイトルは内容的に、まさに「自由な学びが子どもの翼」にピッタリと思って付けました。