いま、共訳で「理解するとはいったいどういうことなのか。そしてそれはどういうふうに教えたらいいのか」が主題の本を訳しています。
「Voice」の訳を、日本の言語学では定訳になっている「態」ではなく、「視点」にしてみました、という共訳者のコメントが事の発端でした。
Voiceは、態でも、視点でもないというのが、私の捉え方です。
「声」でしかない。
「態」などと訳したら、何がなんだかサッパリ分かりません。
「視点」もずれています。
以下は、私が書いた文章です。「エリンさんの本」というのが、いま訳している本です。
このエリンさんの本でも、「視点」と「声」の違いは結構明らかな気がします。
確かに、いろいろな視点は提示してくれています。
しかし、何よりも、彼女の「生の声」が伝わってくる書き方になっていると思われませんか? 人柄までもが。
それは、「視点」とは違うわけです。
日本人が書く文章の多くは(特に、論文は)、その「声」を押し殺して、「視点」だけを提示するものが多いです。その結果、伝わらない部分が多分にあります。視点だけでは、感情的な部分が欠落するので、伝わらないんだと思います。
この分野で有名なNancie AtwellやLucy CalkinsやShelley HarwayneやRalph FletcherやKatie
Wood Rayなど、みんなエリンさんのような書き方をします。きわめて個人的というか、自分のことをさらけ出すような。
その結果、エリンさんが本の最後のところで書いているように、「共感」の度合いがまったく違うんだと思います。それが、おそらく日本の実践が変わらない大きな要因のような気がしています。 読み手に伝わらない/届かない文章が飛び交っている、という意味で。「共感」の度合いが、限りなく小さいという意味で。
基本的に、指導案の作成・検討、研究授業、研究協議(それの論文版も同じ)というフォーマルなアプローチでやり続けている限りは、ますます授業が悪くなっていくだけだと思います。(現状維持さえしていないと思います。) 現場の先生や大学の研究者もそれしかしらないので、極めて効果的でないものを、ひたすらやり続けるしかないのが現状です。
これに対して、共訳者から「書くときに(以下は吉田の付け足し:読む時にも、聞くときにも、話すときにも)「声」=voiceを意識させない、これはご指摘のとおり、日本の国語教育の大きな問題だと思います」というフィードバックをもらいました。
こういうところにも(というか、こういうところから)、日本の国語界というか、教育界が抱えている課題が見えてしまったというわけです。
多くの学校が作成する(あるいは、教育委員会や文科省が配布する)紀要や文章等を読んでも同じことが言えてしまいます。
「声」が聞こえない!
従って、何も伝わらないし、変わらない。 ★
この辺から変えていかないと、先生たち(やそれに引きずられる形で行われている子どもたち)の努力も報われないことを意味します。伝わらない状況で、多くのことが行われているのですから。
ぜひ、「声」のある文章や発言を!
(上の文には、「声」がありましたか?)★ 学級通信や学校(校長)便りには、「声」が聞こえますか?
★★ いま、参院選まっさかりです。
候補者の「声」伝わってきていますか?
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