2025年11月9日日曜日

教わることより、一緒に考えたい ピアカンファランスが拓く子どもたちの対話の力

 東京大学の一柳智紀さんは、教室で交わされる子どもたちの言葉を「発表的会話」と「探索的会話」という二つの型で整理しています★。

発表的会話とは、すでに整理された考えを筋道立てて明瞭に伝える対話のことです。「ここは76を足して13になるでしょ」「この式を使えば求められるよ」といったように、結論と根拠を整えて他者に伝えるやりとりです。思考を整理し、他者に伝える力を育てるという点で重要ですが、「思考の過程」よりも「結果の伝達」に焦点が当たりやすい側面があります。

一方の探索的会話は、未完成の考えを出し合いながら共に考える対話です。「ここ、繰り上がりはどうなるんだろう?」「うーん、ちょっと違うかも」「こうしたらできそうかな」といった試行錯誤のやりとりです。そこでは、誤りや迷いも含めて思考の生成そのものが共有されていきます。発表的会話が「整理する思考」だとすれば、探索的会話は「生まれつつある思考」です。どちらが優れているということではなく、この二つの会話が往還しながら授業が展開するとき、子どもたちの学びはもっとも豊かに動いていきます。

 

 しかし実際の授業では、教師も子どもも無意識のうちに発表的会話に寄っていくことが多くあることに気付かされます。「できた人いる?」「わかった人、教えてくれる?」と問いかける構造の中で、教師の目線は「理解できた子」に集まりがちです。結果として、いままさに迷っている子どもや、途中で考えが止まっている子どもの声が置き去りにされることがあります。授業を前に進めようとする意識が強いほど(教師も子どもも)、探索の時間は短くなり、誤りを資源として活かす余地が減ってしまうのです。

 

 ワークショップ授業では、子ども同士が支え合うやりとりを「ピアカンファランス」と呼びます。私はこれまで、まず教師によるカンファランスがあり、そのあとに子ども同士のピアカンファランスがあると理解していました。つまり、教師が一人ひとりを支えながら「できるようにする」ことを重視し、その姿を手本にして、子どもたちも「できる子がわからない子に教える」ような小さな相談場面をつくっていくものだと考えていたのです。しかし、最近になってそれは本質を捉えきれていなかったのではないかと感じるようになりました。子どもたちは、誰かに教わることを求めているのではありません。むしろ、自分たちで考えたい、一緒に悩みたいと思っているのです。学びが本当に深まる瞬間には、「一緒に迷い、一緒に考える」仲間の存在があります。教師が支えるから学ぶのだけではなく、仲間とともに探るからこそ学びが生まれる、そのことに気づかされました。

 

 先日の「数学者の時間」でも、そのことを実感しました。授業では、「チョコレートバーゲーム」をアレンジした「タコ焼きゲーム」(3×5のマス目上で順番にタコ焼きを食べ、左上の「タコなし」を食べたら負け)を扱いました。最初にルールを説明すると、子どもたちはすぐに盤面を囲んで対話を始めました。何年生でもできますし、もちろん大人でも考えると面白い問題なので、ぜひ挑戦してみてください!




 

 「これ、ただの運じゃないよね?」

 「ううん、きっと何か勝ち方があるはず」

「先行有利ゲーじゃね?」

 「タコをL字に残すと勝てる気がする」

 「いや、待って。最後に取らせる場所をこっちが決めるんだから」

L字にするため、この斜めにある1個をとらせた方がいいのかも!」

「うーん、どっちだ!?」

 

 このとき、子どもたちは誰かに「答えを教わりたい」のではなく「一緒に考えたい」という欲求に突き動かされていました。教師が正解を与えるよりも、友だちと仮説を出し合い、試行錯誤を重ねる過程そのものを楽しんでいるのです。やがて彼らは、「残すタコ焼きの形がL字になること」と「どちらが先にその形を作らせるか」が勝敗の鍵だと突き止めました。答えは教師が与えたものではありません。探索的会話の積み重ねによって、彼ら自身が到達したのです。

 

 このような場面を見ていると、教師によるカンファランスだけでは本質的に補えない領域があることを感じます。教師はすでに答えを知ってしまっています。だからこそ、どれほど問いかけを工夫しても、どこかで「導く」方向に傾いてしまいます。教師のカンファランスは、発表的会話の要素を帯びやすいのです。もちろん、それは学びの過程で不可欠であり、行き詰まりを整理し、次の一歩を見通す支援になります。

 

 それに対して、子ども同士の探索的会話には、教師には担えない実存的な共感があります。教師は「わかってしまっている存在」であり、子どもたちは「まだわからない存在」です。この非対称性ゆえに、教師はどんなに寄り添おうとしても、「わからなさの只中」に並んで立つことはできません。ピアカンファランスは、その「わからない同士」が同じ地点に立ち、手探りで考えをつないでいく営みです。教師がどんなに緻密に設計しても、この瞬間を再現することはできません。

 

 だからこそ、授業では、教師が「支援する人」としてだけでなく、「聴く人」として教室に存在することが大切になります。子どもたちの探索的会話を守るためには、教師が「未完成の考えが歓迎される時間」を意識的に設計する必要があります。そこでは、途中で止まってもいい、間違ってもいい、うまく説明できなくてもいい。そうした文化の中で、子どもたちは安心して考えの途中を言葉にできるようになります。

 

 ピアカンファランスには、教師には実存的に担えない「わからない同士の探索」があって初めて成立するものです。子どもたちは教師に気づかせてもらうよりも、自分たちで発見したいと強く願っています。実はそこに、学びの根源的な喜びがあります。教師はすべてを導く存在ではなく、その喜びが生まれる環境を支える存在でありたいと思うのです。発表的会話と探索的会話の往還のなかで、子どもたちが互いの「わからなさ」を口にしながら、一歩ずつ学びを紡いでいく。その姿に、学びの本質が宿っているのだと感じます。

 

★『これからの授業研究法入門〜23のキーワードから考える〜』第1章「話し言葉の質」より

 

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