アマンダ・ヤンセン博士が提唱する「ラフドラフト思考」は、数学の授業を「正解を出す場所」から「考えを生成し、練り上げていく場所」へと変える新しい視点を与えてくれます。博士はデラウェア大学の教育学者であり、著書『Rough Draft Math(未邦訳)』★の中で、「生徒が未完成の考えを安心して共有できる場」をどうつくるかを問い続けてきました。その背景には、博士自身の経験があります。体育の授業で人前で失敗することを恐れ、恥ずかしさから授業を避けた時期があり、その体験が「間違うことが怖い」数学の授業への見直しにつながったと語っています。博士は、数学の教室を「人が自分らしくいられる場所」に変えたいと願っているのです。
ラフドラフトとは、いわば途中の考え「下書き」のことです。まだ完成していない、確信を持てない、自信のない考えをあえて表現する行為そのものが学びの出発点になります。博士は、教育心理学者ダグラス・バーンズの提唱した「exploratory talk(探究的な対話)」に影響を受けたと述べています。この理論は、ラフドラフト思考の根底にも流れています。ラフドラフト思考が「書くことで考える」学びであるならば、探索的会話は「話すことで考える」学びであると言えるでしょう。どちらも「未完成を大切にする」「他者とともに考えを練り上げる」「言葉を媒介にして理解を深める」という共通の哲学をもっています。
ヤンセン博士は、教師が「未完成でいいから話してみて」と呼びかけることが大切だと言います。授業のはじめに「今日はみんなのラフドラフトを聞かせて」と呼びかけることで、子どもたちの発言の空気が変わります。正解を言わなければならないという緊張がほぐれ、思考の途中を出すことが歓迎される文化が生まれます。この「安全な空間」は、探究的な対話が成り立つための条件でもあります。間違いや曖昧さを受け入れ、互いの思考を尊重しながら対話を続けることで、学びは「評価する/されること」から「共につくりあげること」へと変わっていくのです。
博士の実践では、授業中に「考えの修正(リビジョン)」を組み込むことが重視されています。ある教師は、授業の最初に問題を解かせ、授業の終盤でもう一度同じ問題に取り組ませました。最初は鉛筆で書き、二回目はマーカーで書く。そうすると、生徒は自分の思考の変化を視覚的に確認でき、「できた・できない」ではなく、「考えがどう変わったか」を振り返ることができるようになります。ヤンセン博士はこれを「学びの成長を可視化する営み」と呼びます。理解とは瞬間的に獲得されるものではなく、修正と生成を繰り返す過程そのものだという考え方です。
こうした実践は、小学校にも応用できます。博士が紹介する三年生の授業では、「分数とは何だと思う?」という問いから始まりました。子どもたちは「半分に分けること」「二つに分けること」と自由に答え、それを黒板に貼り出します。授業を重ねるうちに、「分数は二つとは限らない」「等しい大きさで分ける必要がある」といった新しい気づきが生まれ、クラス全体で定義を何度も書き換えていきました。教師が初めから「正しい定義」を与えるのではなく、子どもたちが自らの経験をもとに定義を生成していく。まさにラフドラフト思考が探究的会話へと発展していく姿です。
博士は、こうした授業によって生徒のアイデンティティが変わると言います。正解を言える子が評価される教室ではなく、「あなたの考えがみんなの理解を助けたね」と教師が言葉をかける教室では、子どもたちは自分の声に価値を感じるようになります。博士の研究プロジェクト「SMILES」では、高校生を対象に、教師が生徒の発言を肯定的に取り上げる場面が多いほど、生徒全体の自信と集中度が高まることが示されています。誰かの思考を認めることは、そのクラス全体のエネルギーを上げる行為なのです。
ラフドラフト思考は、「学びを共同的に生成する文化づくり」と深く関係しています。ラフドラフト思考では、個人が書くことで自分の思考を可視化し、整理し、成長させます。その後、クラスで共有されることで、探索的な対話へと発展します。対話を通して他者の視点に触れ、自分の考えを再び書き直す。書くことと話すことの往還が生まれ、学びが循環していくのです。これが、ヤンセン博士のいう「ラフドラフトを歓迎する教室」の核心です。★★
人は新しいことを理解すると、それを昔から知っていたように感じてしまいます。けれども、思考の変化を記録し、振り返ることで、学びが時間をかけた成長のプロセスであることを自覚できるのです。未完成の考えを共有する勇気、そして他者の考えを聴く姿勢。その両方があるとき、教室は「間違いを恐れる場所」から「ともに生成する場所」へと変わります。数学の授業におけるラフドラフト思考は、単なる指導法ではなく、学びそのものを捉え直す哲学なのです。ヤンセン博士の言葉を借りれば、「数学の教室を、正解を競う場から、考えを育て合う共同体へ」。その実現の鍵は、声に出す勇気と、書いて考え続ける粘り強さにあるのではないでしょうか。
★ ヤンセンのラフドラフトマスについては、度々、ポストしてきました。
答えよりも考え方へ 下書きアイディアを共有するラフドラフト思考
https://projectbetterschool.blogspot.com/2020/11/blog-post_15.html
子どもの「間違う権利」を尊重した数学的対話のつくり方
https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/08/blog-post_10.html
★★
以下のYouTube動画でヤンセンをゲストにラフドラフトマスのマインドについて語られています!
Rough Draft Thinking for the Math Classroom: An interview with Dr. Amanda Janson
https://www.youtube.com/watch?v=N5-i-kitUpQ
0 件のコメント:
コメントを投稿