『好奇心のパワー』に対して、以下のような質問をもらいました。
『好奇心のパワー』の内容はとても面白そうですし、教育現場での活用に期待が持てそうです。
一つ質問です。
タイトルにもある、メインテーマとなる「好奇心」は、英語圏あるいは欧米文化の文脈と、日本では意味あいがだいぶ異なる印象を持っています。端的に言えば、英語圏ではどちらかと言えば、前向きで肯定的な意味で捉えられるけれども、日本文化あるいは日本社会では、否定はしないけれどもどちらかと言えば邪魔者、余計なこと、であり、好奇心を必ずしも肯定的には捉えていない印象を持ちます。
それを、本書の刊行に当たってはどのように考えておられたのか、翻訳の際や、編集に際し、何か配慮されたり工夫されたりしたところがあるのか、そこらへんを教えて下さい。
私の回答は、次のようなものでした。
確かに、日本の学校をはじめほとんどの組織で、嫌われるのが本質を突く(好奇心に基づいた)問いでしょうね。会議の席などで、それが出されることはご法度です。そういう暗黙の理解があるというか・・・・
しかし、日本社会が好奇心を肯定的に捉えない限りは、社会自体が浮かばれないことと同義です。
何せ、好奇心がなければ、何事も学べないことを意味するのですから。
(学校に入る前の子どもたちを見れば分かるように!)
アメリカには、「子どもたちは?で入って、!で出てくるところが学校」という言い方があるそうです。
日本の場合は、「小学校の1年生からすでに全員が先生の言う正解に右へならえ」です。
そもそも、教育を何のためにしているのかの「ボタンの掛け違え」をし続けている社会です。
創造力、協力、コミュニケーション能力を培うことなく、ひたすら従順を身につけるところとして存在します。
学びや創造力、協力、コミュニケーション能力だけでなく、変化や成長も拒否し続けることを意味します。
ある意味では、変化や成長を求められることが分かっているというか、こわいので、好奇心に満ちた本質を突く質問を歓迎しないんでしょうね。
に表されてしまっていました。 とくに前編。(部活と授業は連動しています! なにせ同じ人がやっていますから。)
現職の先生方には、このビデオを見てもらうことが、ひょっとしたら一番の気づきになると思います。思考停止のまま自分がしていることが何なのかに気づけますから。
さらにいえば、このテーマは
の第3章で詳しく論じられています。
アメリカでは、こういうことが常に省みられるわけですが、日本の場合は思考停止に陥っているので、教科書をカバーする以外の授業や指導案を磨いた上で行う研究授業以外は存在しない状態が続きます。
要するには、「学校ごっこ」や「正解当てっこゲーム」としての授業ばかりが横行しています。
最後になりましたが、
の図にあるように、本の最初のうちは「興味関心」と訳していました。
でも、授業や学校の中を含めて、私たちの社会には「無関心(=好奇心の欠如)の悪循環」が渦を巻いている気がします。
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